34.現実世界〈フランツ・カフカの世界のような〉10時〜
「ディックです」
僕はそう言った。ディックとは言うまでもなく、フィリップ・k・ディックが由来だ。僕は彼の小説が好きだった。多少支離滅裂になる傾向はあっても、彼の描く現実と虚構の世界はやはり至高のものだと思う。友人であるオーウェルには悪いが、僕はやっぱりディックが好きだ。
「じゃあディックと呼ぼう。ディック、僕は今から君に真実を伝える」
「その真実というのが、何を示すのか僕にはわかりません」
「この一連の出来事は、ある意味では君にとっての出来事と言える」
僕にとっての出来事? 僕はたまたま彼の誘導に引っかかった1人の警察に過ぎないはずだ。しかし、彼の言い方には、僕であることに大きな意味があるというようなニュアンスが含まれているように聞こえた。
「僕にとっての出来事」
僕はそう呟いて、暗にその意味を尋ねた。
「つまり、他の誰でもなく、君が解決することに意味がある」
「何故ですか?」
「〈暗殺者〉についての統計を見ただろう?」
「見ました」
「そこでは、〈暗殺者〉は極めて少ない人数で組織されているということがわかったはずだ」
やはり彼はそれを知っていたのだ。本当に僕が操られていたことが、ここでようやく確信できた。しかし、僕は彼にとっての捨て駒ではないらしかった。チェスで言えばクイーンくらいの位置らしいことは、彼との会話でなんとなく掴むことができた。
しかし、チェスだろうが将棋だろうが、1番強い駒は1番大事な駒ではない。つまり、ボードゲームはキングありきのものなのだ。クイーンを大事にした結果キングをチェックメイトされたら意味がないし、飛車を気にして自分から王手に潜り込んだら負けてしまうわけだ。僕が相手に危害を加えることになれば、たとえ重要な戦力でも捨てられる立場にあることを忘れてはいけない。僕はクイーンであり、キングじゃないのだから。
「しかし」と彼が言った。「正確に言えば、〈暗殺者〉は少ないわけじゃない。1人しかいないんだ」
「1人しかいない?」
「そうだ。君はその1人を捕まえるために誘導されたんだ」
「そのために僕という個人を選んだ、ということですか?」
「そういうことだ」
「なぜ僕なのでしょう?」
わざわざ選ばれるほど、僕に能力があるとは思えなかった。僕は周りの人間に恵まれる傾向にあるにしても、それは僕の能力じゃない。結局ここまでたどり着いたのは彼女のおかげだ。僕は何もしていない。なのに、僕はなぜ彼に選ばれたというのだ?
「それは、〈暗殺者〉が君の分身だからだ」
僕の分身? 一体彼は何を言っているのだろう? 僕に二重人格が備わっていて(ジキルとハイドみたいに)、一方の人格が殺人を犯しているとでもいうのか? そんなバカな話があるか、と僕は思う。(一方の人格は夜に現れると仮定してのことだが)僕には夜の記憶がある。オーウェルと会話をしたり、趣味に講じたり、あるいは事務の女の子の家に行きセックスをしたりだ。どうにも僕が無自覚に人を殺していた、というのは信じがたい。そもそも殺す手段がないじゃないか。
「分身とはどういう意味でしょうか?」
「〈暗殺者)の正体は、不正ユーザーを処理する間に我々が仕込んだ、プログラムだ」
「何故それは公にされていなかったのですか?」
「それは、我々がそのプログラムのAIに自我を植え込んだからだ。そんなことをしたのがバレれば、我々は社会から糾弾される。AIに自我を芽生えさせるのは、今も尚ご法度だからね。そんな隠蔽を図ってまでそうしただけのことはあった。機械的に仕事をこなすより、はるかに柔軟に殺人を行ってくれた。だけど、そのAIは賢過ぎた。彼は自分を人間だと思っているから、自分のやっていることに疑問を持ち始めた。そんな不安定な殺人者は危険だ。だから、僕は彼を殺すことにした」
僕は何故か彼のいうことを自然に受け入れることができた。何故だろう? 僕はそのことをはるか昔から知っていたように感じた。初めて聞くことなのに、当たり前の事実を改めて説明されているような奇妙な感覚だった。
「しかし、何故僕がそれを引き受けるのでしょうか?」
「言ったろう、君はその分身なんだ。より優秀なAIを作るためには人間的な思考が必要だった。だから、実際の人間のリアルな記憶を植え付けた。つまり、現実に存在する人間の記憶をだ。そして、その現実に存在する人間というのが、君だ」
僕は反射的に自分の頭を手で押さえた。僕の記憶が、〈暗殺者〉に植え付けられている? しかし、どうやって?
「君はユートピアが施行された年に生まれただろう? 我々はその年に生まれた子供の1人の脳に、記憶を抽出する装置を埋め込んだ。その装置は取り付けた人間の昼間の記憶をコピーし、AIに転送する。その記憶を植え付けられたAIはより人間に近づくんだ。そして、出来上がった完璧なAIが夜に殺人を行う。その年に機械を埋め込まれた子供というのが、君のことだったんだ。つまり、君の昼間の記憶を機械によって植え付けられたAIが〈暗殺者〉だということだ」
僕の脳には装置が埋め込まれている。嫌悪感が春先の虫のように湧いてきた。僕は無意識のうちにそんなように利用されていたのだ。
僕はポケットに手をかけた。こいつを殺してやりたい。そんな思いでいっぱいだった。いいや、殺さなくてはいけない。
「僕を殺そうと思っているのなら、やめたほうがいい。例え君には死ぬ覚悟があったとしても、死ぬのは君だけじゃない。君の大切な人間を殺すくらい僕たちにはなんでもないことを君は理解するべきだ」
僕はポケットから手を離した。僕はこれ以上他人を巻き込むべきじゃないのだ。
「わかりました、しかしそれは僕が行動しなきゃいけないアンサーにはなっていない。別に僕がやらなくたっていい話なわけだし」
「暗殺をしているのは、ある意味では君なんだ。だから、君なら彼と同じ思考で彼を殺せると思ったんだ」
「なら、僕を警察に推薦したのもあなたですか?」
「そういうことだ」
やれやれ、と僕は思った。こんなことに僕が責任を感じる必要はないと思う。だが、現実として僕は責任を取らざるを得ないらしかった。僕が警察にいる理由さえも、この為だったのだ。
「その彼を僕が殺せばいい」
「そういうことだ、物わかりがよくて嬉しいよ」
皮肉なものだ。現実の僕も、暗殺者の彼(あるいは僕)も、どちらにせよ命を奪う立場にあるのだ。結局は図らずとも同じ人間からなる存在なのだ。その本質は変わらない。
これ以上ここには居たくなかった。ここにいると、僕は自分の本質を光に照らされて、ありありと浮かぶようだった。
「今日は帰ります、どうやら僕は明日から手を血に染めなきゃいけないらしいし、考えなきゃいけないこともたくさんある。受け入れるには、時間が必要だから」
僕がそう言うと、彼は納得したようだった。
「結果的に君を巻き込んだ形になってしまった。つまり、君を勝手に利用してしまった。悪いと思っている」
彼のその言葉を聞いて、僕はあることが頭に浮かんだ。
「フランツ・カフカは読んだことがありますか?」
「フランツ・カフカ? 『変身』を書いた、あのフランツ・カフカか?」
「そうです」
「なぜそんなことを訊く?」
「カフカは小説で、理不尽な世界を描きました。『変身』だって、わけもわからず突然醜い姿になってしまった主人公を襲う理不尽というのが主題です。理不尽ってのはまぁ、往々にしてあるもんなんでしょう。そう思わなきゃやってらんないこともあります。仕方ないってね」
「そうか」と彼は短く言った。
僕は、軽く頭を下げて部屋を出た。外にいた人間は僕を警戒した様子で銃を手にしていたが、やがてしまった。
ここを早く出なくちゃいけない、と僕は思った。ここには暴力が渦巻いている。巻き込まれたのは仕方ないが、せめてその根底には吸い込まれないことだ。僕は自分を暴力に飼い慣らされないよう気を付けなければならないのだ。それが結果的に僕を破滅に導こうとも。
外に出ると、雨は止んでいた。太陽の光が雲の切れ間から差し込む。その光が水たまりに反射していた。
鳥が小さく囀った。それは僕がここで初めて聞く鳥の囀りだった。
初めて聞く君の声だ、どうしてそんな素敵な声をしているのに今まで聞かせてくれなかったんだい?
返答はない。当たり前だ。
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