33.現実世界〈雨の中の庭〉9時〜

 朝から雨が降っていた。それは深い悲しみのような雨だった。ずっと溜め込んだ悲しみのダムが、ふとしたことをきっかけに決壊して、涙が溢れ出てしまったような雨だった。あるいはそれは、魂を吐き出す作業にも似ていた。言葉では表せないものを吐き出すそれだ。

 山のゆるやかな部分の大地は、その雨を目一杯の慈愛で受け入れているように見えた。僕はその光景を見て、とりあえずここを「母なる大地」と名付けることにした。稜線をなぞると、空気と山の境目が曖昧になった。それは現実と混沌の境目が曖昧になっていくのと似ていた。山はもしかしたら、今の僕を暗に表しているのかもしれない。

 雨はある種の信念を持って降っているように見えたが、音は極めて静かだった。それが彼の流儀なのだ、と僕は思った。

 静かな雨音は静かなエンジン音とリンクして、一つの音楽のように響いた。なので、カーオーディオでわざわざ音楽をかける必要はなかった。「雨の中の庭」の情景を想像させる雨音だった。いや、どちらかというとドビュッシーの作曲が素晴らしかったということだろうか。少なくとも、雨が降っている時にその曲を思い返すということは、彼の意図することが叶っているということではないだろうか。どちらにせよ、それは幻想的な雨音だったのだ。

 鳥はやはり囀らなかった。雨音に耳をすませているのかもしれない。あらゆる動物の鳴き声が聞こえないのだ。別にあたり一帯の動物が死滅した訳ではなさそうだった。そこには息を潜める息遣いが感じられたし、生命の持つ温かみ(あるいは冷たさ)も肌に感じた。そういうのは、空気の揺れでわかる。命に共鳴する生きた空気の振動だ。

 車を降りて、傘をさした。傘をさしても、雨はやわらかく降っているからか、傘に雨が当たる音はあまり聞こえなかった。

 その静かさは、まるでここ一帯が世界から孤立しているのではないかとさえ思わせた。今この場所以外が核ミサイルによって放射能降下物に侵され、着々と破滅へと足を運んでいても不思議ではない(渚にてのように)。

 傘からはみ出た肩を雨に濡らしながら、僕はハリスン邸の玄関まで歩いた。そして、ポケットに入れたベレッタに意識を集中させた。あるいはこの引き金を引くことにもなりかねない。できればこの幻想的な雨の日の情景を、血の汚い赤で染めたくはないが。

 ドアは何も言わずとも開いた。おそらく、僕が来ることは予想済みだったのだろう。

 中に入ると、使用人が僕を案内した。前の手袋をした彼とは別の人間だった。見たところ普通の人間で、彼のように有能そうには見えなかった。

 ハリスン氏の部屋に入る前の廊下のカーペットが新しいものだった。おそらく昨日今日おろしたようなものだ。僕はそれにきな臭い何かを感じた。例えば、ここで人を殺したせいで汚れてしまったから、カーペットを変えただとか。

 追跡者は間違いなく、手袋をした彼だった。もしかしたら、彼はここで頭を撃ち抜かれでもしたのかもしれない。彼は見たところ、ハリスン氏の右腕のような存在だったし、今日はここに居ないというのはあまり現実的ではない。となると、任務に失敗した責任を取らされたのかもしれない。

 しかし、殺されたのならまだよかったのかもしれない、と僕は思った。ハリスン氏のように金のある人物は、死以上の苦痛を与える術を持っている。楽に死なせたのは、ある種の敬意なのかもしれない。

 僕はハリスン氏の部屋のドアをノックした。すると、数秒後「入りなさい」という声が聞こえた。

 僕は「失礼します」と言って、部屋に入った。

 部屋の調度品の類は最高品質のものが使われていたが、きらびやかな見た目というようなものではなかった。どちらかというと質素な見た目で、いくらか品があるように感じた。光り輝くものを身につけるのは常に、金を山のように蓄える、下品な人間なのだ。

「伺って構いませんでしたか?」

「構わないよ。君がここに来ると言うことは、こちらとしても大体予想がついていたんだ」

 僕はここに誘導されてしまったのだろうか? あるいはそうかもしれないが、僕があの会社を訪問する邪魔をして来たのだから、おそらくここに僕が来たのは元々の計画には無かったことだろう、と予想した。もちろん、そこには希望的観測が含まれている。

「尋ねたいことがあります」

 僕がそう告げても、彼は表情を変えなかった。きっと僕が何を言い出すか、予想がついているのだろう。

「僕たちの邪魔をしてきた、『追跡者』は、あなたのところで雇われた使用人でした。つまり、手袋をした彼です。何故あなた方のファミリーが僕たちの邪魔をするんでしょうか? 僕たちが真実に近づくことはあなた方にとって都合が悪いんでしょうか?」

 僕は極めて婉曲に、自分の心の内を伝えた。

「もっと直接的に言ってくれて構わない」

 僕の婉曲表現は、彼にはバレていたらしかった。しかし、僕は本人に向かってそれを直接的に言うのが少しはばかられた。それは、先程浮かんだ手袋をした彼の行方の謎による、命の危機に対する恐怖なのかもしれなかった。だが、伝えないわけにはいかなかった。結局は今伝えなくても、いずれはやらなくてはならないことだからだ。先送りにすることに、意味はない。

「あなたが今回の件を裏で操っていたわけですか?」

 言った後、これはあまりに直接的過ぎたかと思った。少なくとも、慎重な物言いとは言い難かった。

「つまり、僕たちが...いや、僕が君を真実まで誘導していた、と?」

「そうです」

 彼はムム...と言って、しばらく考えた。僕はその様子でほぼ確信した。彼は僕たちを操っていたのだ。彼は言葉を選んでいるというより、それを言うべきか悩んでいるように見えた。

「そういうことになるのかもしれない。僕は君達が真実に辿り着くように少しずつ誘導した」

 僕は深く息を吸った。自然と僕はそうなった。空間が重くなるのを感じた 緊張感は空間と同調するのだろうか? 僕はもう一度深く息を吸って、言葉を確かめた。

「警察に武器を売ったのはあなたですか?」

 それを尋ねるのは、ひどく精神を磨耗させる作業だった。それは物語の核を突くようなことだったからだ。僕は今ヒグマの冬眠の邪魔をするような真似をしているのかもしれなかった。

「どうしてそう思ったのだろう?」

「考えると、捜査は武器を与えられてから進み始めたからです」と僕は言った。「それにあの武器はこの国にない武器です。なので外からの輸入があったと僕は考えました」

「君はやはり頭が切れる。それにタフだ。見込んだ通りだよ」

 彼は笑いながらそう言った。それは面白いから笑っているというよりは、思い通りに行くことに対する満足感から来るもののように見受けられた。見る人が見れば邪悪な笑い方のようにも見えるかもしれない。

「武器を売った、と捉えてよろしいですか」

 僕はポケットのベレッタをいつでも使えるように心構えて、そう言った。

「君はもう確信しているんじゃないのかな?」

「そうかもしれません」

 彼の言葉が答えのように感じた。綿密に確かめるまでもない。武器を売ったのは彼なのだ。もう答えは得たし、僕がここにいる理由はないように思った。

「わかりました。そのことが確認できてよかった。ついでに追跡者のことも。しかし」と僕は言った。「僕は僕なりに捜査をします。あなたの筋書き通りに行くかどうかはわからないけど、それは僕の守備範囲じゃない。あるいはあなたの筋書き通り全く違うような形に着地させるかもしれません。しかし、それも僕の知ったことではない。邪魔はしないでいただけますか? それに、最終的には僕もあなたも同じところに辿り着くようになっている気がするんです。どうしてかはわからないけれど」

 僕はそう言って、ドアを開けた。

 すると、彼は引き止めるように口を開いた。

「君と取引がしたい」

 取引? この期に及んで何を取引するというのだろう?

「取引とはなんですか?」

 彼は目を瞑って、言葉を選んでいた。センテンスが正しく作用するように何度も言葉を咀嚼する、小説家のそれだった。

「今から君に真実を全て伝える。つまり、後は君が実際的な働きかけをするだけで、物事は決着がつくというところまでを」

「僕は何をあなたに与えればいいのでしょう」

「今言っただろう? 君は実際的な働きかけをするだけだ」

「断ればどうなるのでしょう?」

「明日にはカーペットが新しくなっているだろうな。それだけさ」

 やはり彼は殺されていたのだ、と僕は思った。

 やれやれ、と僕は思った。あるいは口に出ていたかもしれない。

「わかりました、伺いましょう」

 僕がそう言うと、彼は大きな掌を差し出した。僕はそれを握り返す。できるだけ強く、しかし紳士的に。

 これで僕はもう元の道には戻れない。仕方ないとはいえ、僕は自分の正義を捨てなければならないかもしれない。もちろん、「実際的な働きかけ」というのが何を意味するかにもよるが、彼女とも純粋な意味での関係を続けられなくなるかもしれない。しかし、僕は人生が失うことの連続である事を知っている。これは転機なのだ。そう思うことで、僕はいくらか心を落ち着かせることが出来た。

「僕たちの取引は、ユートピアを介して行われる。だから僕はユートピアにおける君と取引がしたい。だから名前を教えてくれるかな」

 名前? なんでそんな必要があるのだろう? しかし、躊躇することでもない。僕は困惑しつつも答えた。

「ディックです」

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