25.現実世界〈I WANT TO HOLD YOUR HAND〉9時〜

 事務の女の子は今日休んでいる。彼女は今経産省にクラッキングを仕掛けているので、仮病を使っているわけだ。

 彼女がそのような大仕事に取り組んでいるのに、僕はというとやることがなかった。朝僕のスマートフォンには、「仕事が終わったら私の家に寄って」という彼女のメッセージが届いていた。仕事が終わる時間までは、僕にできることなど何一つない。

 散歩でもしようかと思ったが、流石にそれは僕にも罪悪感が生まれる。明日はおそらく、彼女が調べ上げた委託会社に乗り込むことになる。それがスムーズに行えるように、準備をしておくべきなのかもしれない。

 僕は署に新たに設けられた武器庫から、AKS-74とドラグノフ狙撃銃を取り出し、それを車のトランクに積んだ。それから弾薬を積んだ。

 拳銃を取り出して、それの手入れをした。銃身にブラシを通す。これを撃ったことはまだ無いので煤はほとんどつかなかったが、恒常的に手入れすることが肝心なはずだ。それに、与えられた銃火器は新品ではない。全ての部品を一応点検したほうがいいのかもしれない。

 それからフィードランプの汚れを取った。フィードランプの汚れがそのままだと、いざ撃つ時にジャムるかもしれないので、この作業は特に丁寧に行った。

 先程トランクに積んだ自動小銃と狙撃銃の手入れもした方がいいかと思ったが、そもそもそれらの武器を使うような事態になることは流石にない。拳銃だって気休めなのだ。

 僕はそれらの作業を終えて、一息ついた。ここ最近ではあまり感じなかった種類の疲れを感じた。肉体的な疲れだ。

 昼休みだったし、僕は外の空気を吸うために署を出た。太陽の光は暖かく、風は優しかった。空気は適度な温度を保ち、とても澄んだ味がした。深呼吸をすると、澄んだ空気が僕の身体を駆け巡り、薄汚れたものが浄化されていくのを感じた。

 僕はコーヒーを一杯買って、それを近くの公園のベンチに座って飲んだ。食欲はなかったが、何か腹に入れておいたほうがいい。僕は持ってきていたあんデニッシュを食べた。甘さが鬱陶しかったが、これを選んだのは僕なので我慢した。

 周りには、同じようにベンチに座って食事をする人がちらほらといた。子連れの主婦は、公園の遊具で遊ぶ子供を尻目に、サンドイッチを食べていた。無邪気に遊ぶ子供は、この先楽しいことしかないのだと信じ込んでいるように見えた。僕にもあんな風に幸せそうな時代があったのか、と思った。本当にあっただろうか?

 そんな様子を見ているうちに、あんデニッシュを食べ終えた。井の中が甘ったるかったので、コーヒーを流し込んだ。僕は立ち上がって、それから署に戻った。


 午後は、明日からの捜査に必要な人員を申請したりといった準備を進めることにした。

 僕はハリネズミのデスクに行った。

「明日おそらく、例の企業に捜査に行きます。4人の人員が欲しいんです。できれば、狙撃銃を扱える人間が一人欲しい。もちろん、念のためですが」

「わかった、用意しよう。しかし、どうやって企業の特定をしたんだ?」

「それを言うわけには行きません。仮にも僕は警察ですし、形の上では然るべき手段で情報を得たということになっているのです」

 彼は笑いながら、「然るべき手段ではないってことだな」と言った。

「正攻法じゃ解決しない問題もこの世には大いにある。特に今回の件はそれの典型らしい。何も見てないフリするさ」

「ありがとうございます」

 僕はそう言って、その場を離れた。


 仕事が終わり、僕は彼女の家へと向かった。インターホンを鳴らすと、程なくしてドアが開いた。彼女の部屋は電気が付いていなく、ずっと作業をしていたことが伺えた。パソコンは付いたままで、その光である程度のものは見えた。

「情報は手に入れたわよ。足跡も残していない」

 彼女はまるで、ゴキブリは殺したわよ、くらいの言い方でそう言った。ただなんでもないことを、当たり前にこなしたのだ、というような言い方だった。

「本当に君には感謝しなくちゃいけない。もちろん今もしているけど、これじゃきっと足りないんだと思う」

「私にできることをやっただけなんだから、そんな感謝しなくていいわよ」

「そういうわけにはいかない。何かの形で君には貰ったものを返したい」

「じゃあ」と彼女が言った。「全てが終わったら、あなたなりの形で返してくれればいいわよ」

 僕は、「わかった、僕なりの形で」と言った。

「で、情報でしょう?」

 彼女はそう言って、デスクに置いてあった紙を取り出した。その紙には委託された企業の名前とそれについての情報が書き込まれていた。

 企業の名前は、この国に住んでいるのなら誰もが知っているものだった。考えてみれば、いくら土台があったとはいえ電脳世界を作り上げたのだから、大企業が関わっているのは当たり前だったのかもしれない。

「ここに行けば、僕たちは一歩先へ進める」

「それが前進ならいいけれど」

「どういう意味?」

「人間が歩む時、それが必ずしも前に進んでいるとは限らないという意味よ」

「あるいは、後ろに進んでいるのかもしれない」

「そういうこと。私はどうも、これが良い結果を生むかどうかが心配なの。どうしてかしら」

「それはきっと、今回の件の全体像が未だ掴めないからだろう。何が、何を操っていて、それによって何を成し遂げようとしているのかがわからないから」

「わからないことは酷く恐ろしいことよ」

「先のことがわかる人間なんていない」

 僕は自分でそう言ってから、その言葉を頭の中で反芻した。先のことがわかる人間なんていない。この件に関わる誰もがわかっていないのかもしれない。深い謎の中の奥へと進んでいくごとに、わからないことは増えていく。ならば、まだ謎の入り口に入ったばかりの僕がわからないのに、誰が先に着いてなんてわかるのだろう?

 パソコンが長時間触れなかったからか、画面が暗くなり、彼女の顔が見えなくなった。暗闇の中でも、彼女の不安が読み取れた。あるいは、それは僕の不安でもあったのかもしれない。彼女は僕の鏡だ。

「これは、どこまで続くかわからない深淵の入り口かもしれない」

 深淵の入り口、というのが正しい表現かどうかわからなかった。深淵という表現には、いくらか永遠を感じさせる響きがある。しかし、この物語にも終わりはある。出口はある。

「いくら私が手伝っても、結局そこに足を踏み入れるのはあなたになってしまう。それがわかっている?

「もちろん、分かっている」

 そして、僕はこれから自分に起こることを想像した。しかし、それはうまく頭の中でまとまらなかった。

 人生は強大な力(あるいは神)に決められた台本を、気づかないうちに僕らがこなしているに過ぎない。しかし、今回ばかりは台本が未完なのかもしれない。だから、僕の予見が働かないのではないかと思った。無いものを見通すことなんてできないのだ。

 それはまるで、熱いミルクの中にチョコレートをひとかけら落としたような感じだった。スプーンでかき混ぜると、溶けたチョコレートが白いミルクの中で渦巻くそれに似ていたのだ。

「武器を使う覚悟はできているの?」

 彼女はそう尋ねた。

 僕は黙って頷いた。言葉にしたら、それは嘘に変わってしまうような気がしたからだ。

 すると、彼女は何かに操られるように部屋を出ていった。そして、1分くらいした後、彼女はスコッチ・ウィスキーを片手に戻ってきた。

「景気づけに、どう?」

 アルコールで嫌なことを一時的に忘れるのも悪くない。仕事の上ではそれも効果的な事だ。特に、こういう精神に摩擦が伴う場合には。

「いいね、やろう」

 僕がそう言うと、彼女はグラスを二つ持ってきて、それに大きな氷を入れた。

「ロックで良いわよね?」

「僕は基本的に何事も割らない主義なんだ。だから、色々なことをいる」

「あなた一口も飲んでないのに、もう酔ったの?」

 彼女は笑いながら言った。彼女は心底楽しそうな表情をしていた。彼女だって、あるいは酔っているのかもしれない。

 僕はスコッチ・ウィスキーの氷が溶けて、カランと音がし始めるくらい、ゆっくりと飲んだ。喉を通る時、煙っぽい香りが鼻に抜けた。

 僕は「音楽でもあると良いんだけど」と言った。

 すると、彼女は物置のようなところからレコードプレーヤーを持ってきた。まるで、何世紀も前の世界に逆戻りしたような気分になった。

「ウィスキーにはレコードと相場が決まっているのよ」

「僕が時々行くバーにも、ジュークボックスとかはもう置いていないけど、あるもんなんだね。レコードも」

「あるもんなのよ」

 彼女は何枚かレコードをかけた。そこには僕の知っている今日も何個かあった。その殆どはビートルズだったが。アビイロードやリボルバー等の盤は知っている曲ばかりだった。曲名は思い出せなくても、言われたら思い出す程度には、有名な曲揃いだった。

 ポール・マッカートニーとジョン・レノンは僕たちの新たな門出を祝うように、歌い続けた。レコードは時間による劣化なのか、単に傷が付いているのか、ところどころ音は飛んだが、それでも素晴らしい歌声だった。二人のどちらがリードボーカルなのかは、永遠の論争のテーマとなっているらしいが、僕はそのどちらでも良い。二人の歌声があって、きっとビートルズというものがあるのだ。ビートルズは有名どころしか知らないが、そう思った。

 僕がウィスキーを飲み終わる頃には、「I WANT TO HOLD YOUR HAND」が流れていた。二人が声を揃わせる名曲だ。僕でも知ってる。

「私、この曲好きよ」

 彼女が突然言った。

「他のどの曲よりも?」

「そうね。ビートルズは結構どれも好きだけど、この曲はとても素敵。歌詞もわかりやすい」

 彼女がそう言ったからかどうかはわからないが、僕は気づくとそれをぼそぼそと歌っていた。

 ポール・マッカートニーやジョン・レノンのようにはいかないし、不格好だった。しかし、久しぶりに気分の良い夜だった。

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