22.現実世界〈物事にはセオリーがある〉9時〜
朝起きて、私はまずコーヒーを入れた。インスタントコーヒーの入れ方にも、セオリーがある。とは言っても、然るべき動画を効果的に用いるというだけなのだが。ちゃんとしたケトルやコーヒースプーンがあれば、実はインスタントコーヒーというのは美味しくなるものである。勿論、そこには少なからず気持ちの問題というのが含まれているのだろうとは思うが。
ミルクは基本的に入れない。砂糖は絶対入れない。それはコーヒーの香りというものをそこなうし、何より苦味が減るというのはいただけない。人はカフェインじゃなく苦味によって、眠気を飛ばしているのではないかと私は思うことがある。現に、コーヒーを少し口に含み、その苦味を口の中に残しておけば、私は1時間は眠気を感じずに作業ができた。カフェインなんてプラシーボ効果を用いたものに過ぎないのかもしれない。
私は冷蔵庫から牛乳を出した。コーヒーに入れるわけではない。コーンフレークにかけるためのものだ。朝ごはんなんてそんなものでいいのだ、と私は思う。
私は自分の部屋に行き、パソコンの電源をつけた。中央省庁の握る情報を手に入れる、という使命が私にはあるのだ。しかし、中央省庁というのは漠然とした言い方だ。その中のどれがその情報を握っているか、まではわからない。
しかし、おそらく経産省ではないかと私は思う。その線で作業を始めて、とりあえずは問題ないはずだ。
多分、簡単な仕事ではない。今日1日かけて盗み取れるものではない。2日...今日合わせて2日だ、と私は考える。私ほどであれば、2日あれば鍵が作れる。鍵を作れば後は簡単だ。それを差し込み、ドアノブを回せばいい。
しかし、その鍵を作るのはなかなかに難航するはずである。経産省の情報は国に関わる問題なので、それこそセキュリティは尋常じゃなく硬い。
おそらく、ここまでの厳重なセキュリティに侵入するならば、ブルートフォースアタックは効果的じゃないだろう。どれほど高度な暗号化がなされているかはわからないが、少なくともそのような原始的なやり方で直ぐに侵入できるほど、柔なセキュリティは張らないはずだ。
もちろん、自動で可能な限りの組み合わせを作らせて、それを打ち込むという手段がないわけではない。時間はかかっても、それならいつかはクラックが成功する。しかし、どれほどの時間を要するか予想がつかない方法は避けるべきだ。私の能力ならどれくらいの時間がかかるだろう、という発想に至ることができる方法を選ばなくてはならない。
人の携帯をクラックするわけではないので、ディクショナリアタックも効果は期待できないだろう、と私は考えた。国にとって重要な情報のセキュリティを、まさか誕生日などでは決めたりはしないだろう。
結局オーソドックスにマルウェアを仕込むというのが最善のように思えた。そう簡単にそんな細工ができる相手ではないが、私には手立てがある。私は数種類のそれを既に作っていた。
ユートピアのログを改竄する時に使用するプログラムは、所謂トロイの木馬のバックドア型だが、今回もそれを使えばいいはずだ。そいつを仕込んで、情報を公開のものとさせる。そして、それを善良な市民として、白昼堂々とスマートフォンから情報を得る。情報を得たからと言って、相手は私をクラッカー扱いはできない。何故なら、それは公開されたものだから。
しかし、問題は私が仕込むトロイの木馬がいつ相手に潜り込めるか、だ。おそらく私が作ったものはいずれ相手に感染させることができる。問題は、時間のことだ。
新しいセキュリティのソフトだと売り込むべきか。そうすれば、相手はさらなる厳機密漏洩防止に努めるため、それを採用するかもしれない。もちろん、私が作るソフトは表向き...いや、裏だってクリアだ。私が作るマルウェアは、完璧なのだ。
そうなると、一個人としてソフトを売り込むのは不自然だ。仕方ないが、クラックする為に、他のものをクラックしよう。手頃なソフト開発の企業を乗っ取って、それを遠隔操作し私のソフトを売り込もう。
できれば信頼性の問題から大企業の方がいいが、そうなると時間がかかる。有名ではないが、製品の質には自信がある、という企業を乗っ取るべきかもしれない。そういった組織に限って、自分のセキュリティには甘かったりするものである。なぜなら自分がターゲットになるなんて思っていないからだ。
ありがたいことに、私はそういった企業に心当たりがあった。それはマルウェア対策のソフト会社で、昔カルト宗教団体の頑丈なセキュリティを作っていた。それが露見し、しばらく企業の信用は損ねたが、製品の質は誰しもが認めていた。ちょうど良い企業だ、と私は考えた。
わざわざ経産省が使用するソフトを公開するはずがないので、企業のイメージよりも質で製品を選ぶはずである。
道筋が決まれば、もう私が止まることはない。それはまるで、春の川のように。
私はすぐにその企業をブルートフォースアタックで乗っ取った。そして、その企業名義で経産省に対してソフトを売り込んだ。安心と信頼のソフトウェアを貴方に。
さぁ、あとは待つだけだ。おそらく、そんなに時間もかからないだろう。別に採用されなくたって構わないのだ。そのソフトを確認する為に開かせれば良い。
私は今一度コーヒーを入れ、慈しむようにそれを飲んだ。うん、美味しい。
しかし、ペットボトルのコーヒーを買うことも検討しするべきかもしれない。いちいちお湯を沸かすのはめんどくさいし、手軽にアイスコーヒーを飲みたい時だってある。
コーヒーを飲むと、なんだか私は自分を客観的に見られる気がした。こういう時、客観的に自分を見ることは、物事を暗い方向へと運びがちだ。なぜなら自分の汚い部分がよく見えるからだ。あぁ、何故私はこんなことをしているのだろう? と。
「あなたはどうしてそんなことをしているの?」
別の私がそう尋ねた。
どうしてかしら? と私は答える
「自分じゃわからないの?」
わからないのかもしれない。
「自分のことなのに?」
自分のことなのに。
「自分の心がわかる人なんていない」
聞いたことのある言葉だった。その言葉は私の頭の中で、木琴のような音として響いた。頭の中枢を、優しく刺激するように。
彼か、と私は思った。彼の言葉を私が意識的に覚えていたわけじゃない。それなのに、別の私がそう語りかけたということは、余程大切な言葉として私の中に残ったのかもしれない。
私は今二人の男性に対して、特別な感情を抱いている。特別な仕事もしている。それは恋愛的なものじゃないと私は思っているが、実際どうなのかはよくわからない。とにかく、私は2人ともがわりに好きだった。
それは一体何故だろう、と私は考える。多分、それは2人に似たものを感じるからだろうな、と思った。いや、似ているというレベルではない。2人は本質的なものが同じだ。表面ではなく、内面の核となる部分が。
あるいは、2人は同一人物なのかもしれない、と私は思った。彼は警察だと言っていた。大いにあり得る話だ。いくら電脳世界の捜査は全国的に展開され始めていたとしても、そんなに沢山の数がいるわけではないはずだ。むしろ、ここまで私の心が2人の共通点を告げているのだから、2人は同じでなければおかしいのではないか?
しかし、何故だろう。私の心はそれを認めようとしていなかった。あるいは、それは私が2人は別物であって欲しいと思っているからにすぎないのかもしれない。私は2人を愛したい、そう考えているのかもしれない。
まぁ、今はそのことに関しては保留だ。私は残ったコーヒーを飲み干して、それからパソコンの前に戻った。
私が仕組んだマルウェアは、見事に経産省に踏まれていた。今情報を掴んで見せるから待っていてね、と心で唱える。私はしばらくその自分の言葉を反芻して、それから然るべき作業を行った。
窓の外を見ると、空は幾分赤みがかっていた。まるで、薄いオレンジ色のカーテンを地球の上にかけたようだった。あるいは、世界が終る直前の空のようだった。
これは何かの兆候かもしれない。何かが終る不吉な出来事を予言しているように私は感じた。
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