20.現実世界〈オイラーの等式のように〉9時〜

 署に着き、まず書類を印刷した。そして僕は30分ほどかけてそれに不備がないかどうか確認をした。不備はなかった。オイラーの等式のように美しくまとまった書類だった。そこには少しのもない。

 僕はそれを上司に渡した。そして、出来れば早急に目を通して欲しいと言った。時間はすぐそこまで迫っているのだ。手続き段階で停滞しているわけにはいかない。

 僕はそれを目を通してもらっている間、特にすることは無いので、自分の瞬きの回数を数えていた。時間は迫っている。それも結構近くまで。しかし、今は何もすべきではない。すべきことは瞬きと呼吸くらいだ。

 昨日僕は瞬きをもせずに書類作りに没頭した。しかし、本来僕という生き物は瞬きが少ないようだった。瞬きの数が何に関係しているかは知らないし、知りたくもない。ただの事実として、僕は瞬きが少ないというものを受け入れた。僕はそんなことを考えている程には暇だった、ということだ。

 思えばこんなにも頭を空っぽにしている時間というのは、最近では無かったような気がする。常に迫りくる影(あるいは時間)のことを考えていた。

 しかし、今は頭の片隅にそれがチラつくものの、意識はそこへはいかなかった。それが良い兆しなのか、悪い兆しなのかは判断が付かなかったが、どちらにせよ悪い気分では無かった。


 やがて、上司が来た。彼はハリネズミと呼ばれていた。頭がハリネズミみたいだからだ。

 ハリネズミは「目を通したよ」と言った。

「どうでしたか」と僕。

「率直に言えば、よくまとまっていた。問題に対する意見があり、それを裏付ける事実がある。それに対する君自身の疑問というテーゼがあり、それを解決する今後の方針が書かれている。とてもよくできた文章だ。君はこれだけのことを数日で調べたのか?」

「ええ、しかし仕事らしい仕事をしていないのも事実ですが。僕はただ人に話を聞きに行っただけです。本来やるべき作業はほぼ手をつけていないんです。例えば目を通しておくべき、今回の問題に対する我々の書類とかはまだ目を通していません。少々今回のことに時間を取られすぎました」

 皮肉のつもりで言った。僕は我々の基本的な業務内容なんかより自分の足で調べる方がよっぽど効率がいいのだ、と暗に示した。それが伝わったかは知らないが。

「自分の見解を述べてきた人間は君一人だけだし、これを見る限り君の慧眼を信じないわけにはいかない。君の考える方向で操作するための人員を何人か用意しよう。君たちでそっちの方面で調べてもらいたい」

「僕のやり方でやってもいいんですか?」

「もちろん」

「署にいる時間は少なくなるかもしれません。それと、警察の情報力をお借りしたいのですが。僕のような下っ端には調べることができない情報が必要になります」

 僕がそう言うと、彼はそのチクチクした髪の毛を撫でた。それから書類のアンダーラインの引っ張った箇所を指で差して言った。

「ここかな?」

「そこです」と僕は言った。

「"ユートピアは、多数の企業に委託されて作られた。ユートピアの構造を知ることが我々には必要であるが、その企業についての情報を知らない限りは進めない。そこで、その企業を調べた上で、そこに直接話を聞きに行くべきだ" つまり、君はその企業が何かしら情報を握っていると思っているわけだ」

「そういうことです」

「しかし、ユートピアは公営化が進んでいるから、その情報を調べるには中央省庁の許しが必要かもしれない。おそらく、彼らが情報を握っているだろうしな」

 予想した通りだった。簡単に入手できるような情報ではないのだ。しかし、僕には手があった。

「僕に手があります」

「手?」

「つまり、僕にはその情報を知る手立てに覚えがあるということです」

 ハリネズミはため息をついて言った。僕の思惑に少なからず察しがついたのだろう。

「それは法を逸脱するものなのかな」

「少々クラッキングを行います。しかし、足跡は残しません」

 僕がそういうと、彼はやっぱりかとでも言うように、もう一度ため息をついた。

「僕は何も話を聞かなかった。これは君が勝手にやったことだ。いいね?」

 許可は下りたようだった。もちろん、自己責任でという話でだが。

「すみません、ありがとうございます」

 僕がその場から去る時に、声をかけられた。

「うまくやれ。器用にじゃない。うまくだ」

「ええ、うまくやります」と僕は言った。


 仕事が終わった頃を見計って、事務の女の子の元へ行った。僕は極めて真面目な表情で彼女の目の前に立った。

「相談がある」

「相談?」

「君にしかできないことなんだ」

「いいわよ、私の家に行きましょう」

「ありがとう」と僕は言った。

 彼女は僕の表情から何かしらを察知したようで、すぐさま僕を家に連れて行った。

 一端の女としてその行動が良いものなのかどうか僕には判断しかねたが、それは彼女の僕に対しての信頼なのだと解釈した。彼女は綺麗な顔立ちをしているし、いい寄る男性だってたくさんいるだろう。少なくとも、僕のような平凡な男と仲良くしているべきではない人種なはずだ。しかし、彼女は現に僕をそれなりに愛しているようだったし、僕もまた彼女のことをそれなりに愛していた。

 愛とはつまり、二人が共通して持つべきものだ。どちらか片方の愛は、それは愛ではない。愛とは無償のつもりで与え、結果として同じ分量の愛が返ってくることを言うはずだ。そういう意味では僕らは適切な量の愛を送り合う、適切な関係なように思えた。

 彼女の部屋に案内された。この前見た、コンピュータだらけの部屋だ。近くで見ると、その数はよりおびただしいものに思えた。

「どうせ私に何か調べて欲しいんでしょう?顔にそう書いている」

 やれやれ、と僕は思った。彼女にはお見通しなのだ。

「君の能力を、僕のために使って欲しい」

「私もね、私の能力を自分以外の誰かに使うとしたら、それはあなただと思うの。いいわよ、何?」

「中央省庁からデータを盗み取って欲しい」

 彼女は「ふーん」と言った。

「驚かないの?」

「それくらいのことは覚悟していた。正直もっとひどいことも覚悟していたわ。例えば、国中のパソコンにそのデータを木っ端微塵にするようなウイルスを仕込めだとか、アメリカ名義で中国に挑発する電報を送らせて欲しい、とか」

「だから」と彼女が言った。「そのくらい平気よ。もちろん、うまくできるかは別だけど。やればいいんでしょう?」

 彼女は多分仕事をやってのけるだろう、と思った。しかし、同時に心配にもなった。もし彼女が足跡を残せば、機器的状況に陥るのは彼女なのだ。

 僕の表情から読み取ったのか、彼女が言った。

「私のことを心配しているの?ならその必要はないわよ。うまくできるかは別って言ったけど、実際やってみせるわよ」

「君に危ないことはさせたくなかった、ごめん。だけど、君の力を頼りたいと考えていることもまた事実だ。訳あって僕は時間に追われている。漠然とそう感じている」

「調べるのに、明日丸一日必要よ。明日私が休むことに関して、何か都合をつけておいてほしいのだけど」

「君は酷い二日酔いでうなされている、と言っておく」

 彼女はため息をついて、それから笑った。

「それでいいわ、じゃあ...明後日」

「僕が手伝う必要はない?」

「ないわよ。手の内は晒したくないしね」

「ごめん」と僕は言った。誤ってばかりだ。


 それから僕と彼女は、二人で酒を飲んだ。これから始まる僕たちの危ない仕事を祝った。それはまるで、船の門出を祝う民衆、と言った感じだった。安い酒を撒き散らす...とまではいかないが、とにかく安い酒をオンザロックで飲んだ。

 セックスはしなかった。僕はそういう気分じゃなかったし、酔いが幾分回っていた。何せアルコールがきついだけの安物の酒をオンザロックで飲んだのだ。

 アルコールが体に染みていくのを感じた。あるいは、明日二日酔いでうなされるのは僕かもしれない。ふと、そう思った。

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