14.現実世界〈囀らない鳥・メタファー〉9時〜

 エンジン音はとても静かだ。それは、僕の心臓の音をかき消すか、かき消さないか、程度の音だった。完全とは言わないが、それに近い静寂だった。

 しかし静かな車内というのは、底の知れない不気味さがあった。無音というのは、時に人の精神を蝕む。

 現に、かつて無音室という、あらゆる音を吸い込む壁で囲まれた部屋を勾留につかっていたことがあった。確か22世紀の頃だ。そこでは自分の声さえ聞こえない。数日で発狂する、というのがオチだった。

 それが倫理的にどうなのか、拷問ではないのかと国際的に糾弾され、その国はそれを撤退したのだった。

 僕は今日、ハリスン氏の元へと向かっていた。前と同じ道を走り、やがて館へと着いた。空は重い鈍色の雲がのしかかっていた。館はそれに伴って、前より幾分暗い雰囲気だった。

 無音と重い雲。僕を暗い気持ちにさせるには十分の条件だった。

 前のように館に入れてもらい、応接室に通された。ハリスン氏は、もう席に座って僕を待っていた。

 ハリスン氏は、今日も健康的な筋肉を胸につけていた。しかし、目つきはあまり健康的とは言えなかった。そこには、僕の二度目の訪問によく思っていない様子が表れていた。

「今日はなんの用件かな?」

 直訳すると、「なんで来たんだ馬鹿野郎」と言った感じかも知れない。

「今日は尋ねたいことがあってきました」

「尋ねたいこと?」

「電脳世界に関する統計はどこで見れますか?」

「統計?」と彼が言った。「統計は特定の場所にある、というわけではない。何故ならユートピアは、具体的な本社だとか建物があるものではないからだ。ユートピアは僕が作った基礎をもとに、企業に委託して作られた巨大なアプリケーションなんだ。つまり、その実態は社員と呼ばれる人間が各自の家のコンピュータで運営を行なっている、個人の集合体に過ぎないというわけだ」

「つまりある種の独立したネットワークのようなものということですか?」

「わかりやすく言えば」と彼が言った。

「でも、統計の管理に関する最高権限を持つ人間なら知っている」

「教えていただけますか?」

 僕がそう尋ねると彼はタブレットを出した。彼はそのタブレットの画面を僕の方に見せてきた。そこには人の名前、写真、住所が書かれていた。

「このデータを転送する。その人物を尋ねたら、統計を見せてもらえるはずだ」

 彼は、ほらこれでいいだろ、帰れよ、とでも言うような顔をしていた。まるで僕が家に現れたゴキブリであるかのようだった。

 「ありがとうございます」

 僕は素直に礼を言って、ハリスン邸を出た。空はまだ曇っていた。鳥の囀りも聞こえなかった。それは、僕にこれから先起こる何かのメタファーなのかもしれなかった。

 時計を見ると、まだ12時だった。しかし、統計の持ち主はここからかなり遠いところに住んでいた。おそらく、新幹線に乗る必要がある。そうなると、今日行くのは無理だ。

 ならば、僕がすべきことは何か。

 あらゆる可能性を模索して、結局僕がすべきことは署で飲むインスタントコーヒーを買うことくらいである、ということになった。

 実際、仕事中に飲むコーヒーを買うことは捜査の一部なのだ。

 僕は運転中、自分の周りを取り囲む様々な謎について考えた。〈暗殺者〉の捜査。プログラミングやクラッキングに関する知識が並大抵でない彼女。持たされた武器の数々。囀らない鳥。彼女の入れる美味しいコーヒー。

 僕の周りには世界中の謎が集中しているのではないか、と思うくらいには、謎ばかりがあった。まるで、僕という生贄の周りで謎が踊りを踊っているかのようだ、と思った。

 そもそも、何故僕がこんなことを調べているのだろう。もっと言うならば、何故僕は警察などをやっているのだろう?

 僕は警察になりませんか、という推薦を受けて警察になった。しかし、危険な仕事がドローンにより減った今、警察はエリートのみがなることができる形式的な職業になりつつあった。そもそも、僕のような何にも秀でていない人間がなるものではないはずなのだ。僕は特別勉強ができるわけじゃない。

 そして、彼女のことだ。彼女は何故あのような技術を身に付けることができたのだろう。ログの改竄なんてできたら、ユートピアというのは滅ぶ。セキュリティは国家が機密情報を補完する際に使われるようなレベルのものが採用されているはずなのだ。破れるわけがない。

 それを何故、彼女が可能としたのだろうか。こればかりは、彼女がプログラミング、クラッキングに関して、異常なまでの才能を持っているという解釈する他ない。世の中には、なんらかの人知を超える作用が働いたとしか思えないような才能を持つ人間が、現れることがあるものなのだ。

 そして〈暗殺者〉は一体どれほどの数が存在するのか。そもそもその性質上、沢山現れるようなものではない。しかし、スレッドの書き込みを信用するならば、その数は限りなく少ない。あるいは、1人しかいないのかもしれない。

「1人...」と僕は呟いた。1人? 冗談だろう。

 僕は気を紛らわせるために、車に取り付けられたモニターに映画を表示させた。そして、僕は多少、電気代が嵩むことを覚悟した上で、車を自動運転に切り替えた。経費で落とせばいいのだ。

 歴史的な映画を見るのも良かったが、今日はヒッチコックの映画を見ることにした。しかし時代を考えれば、それも歴史的な映画なような気がしてきた。

 人生はヒッチコックのようにはいかない。鳥は人を襲わない、囀りさえしないのだ。

 しかし、と僕は思う。僕の人生はある意味ではヒッチコックよりもサスペンスに満ちているのではないか。僕のポケットに入ったベレッタの92モデルがそれを語っている。

 トランクには、AK74-Mがある。しかし、AKというのははっきり言って少々時代遅れなのではないか、と思った。そもそもAKとは冷戦化でワルシャワ条約機構国内と中国、ベトナム戦争時には北ベトナム軍が主に使用していた武器だ。AKは、共産主義の象徴とも言える(少々偏見かもしれないが)のだ。安価で扱いやすいという性格から、過激派もよく使う銃でもある。あまり良いイメージの銃とは言えない。

 そもそも、この武器はどうやって調達したのだろう?僕の知る限り、この国でAKが採用された歴史はない。継続的な武器開発の必要がないこの国では、主力の小銃は未だに89式だ。この国にそれ以外の銃があるのはおかしい。

 もしかしたら、今回の件は国以外の大きな影が動いているのかもしれない、と僕は思った。何か、よからぬ動きを感じる。与えられた武器はその予兆なのではないか?

 彼女は武器を忌み嫌った。それすらも、僕のこれから先を表すある種のメタファーのように感じた。

 囀らない鳥。与えられた出どころのわからない武器。僕の周りの混沌カオスは着々と僕を飲み込みつつあるようだった。混沌と僕の境界線は、もはやあやふやだった。それは暗闇と光の境界がはっきりと定まらない感覚と似ていた。

 家に着くとすぐに、僕はベッドに身を投げた。そして、スマートフォンで先ほどの映画の続きを見た。そして、家にあったインスタントラーメンを作り、それを食べた。琥珀色のスープの油が喉を濡らすのを感じた。

 疲れがどっと押し寄せてくるような感覚がした。しかし、へばっているわけにもいかないのだ。

 映画を見ながら、一体僕はこれからどのような世界に迷い込むことになるのだろう? 混沌は僕をどう蝕むのだろう? と考えた。

 もちろん、ヒッチコックはそんなことは教えてくれなかった。

 あ、コーヒー。コーヒーを買うのを忘れた。

 まぁいい、明日買えばいいのだ。人生とは妥協の連続かもしれない。その時、そう思った。

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