12.現実世界〈絶対的な命題〉9時〜

 電車の中は、疲れた人たちでいっぱいだった。かつては終電に疲れた人がよく見受けられたが、今では朝だって疲れた人ばかりだ。そして、僕だってその例外ではない。

 電車の中で僕は、シャーロックホームズシリーズの、「緋色の研究」を読んでいた。エドガー・アラン・ポーが作り上げた推理小説というジャンルを広めた、言わば記念碑的小説だ。そしてそれを今の形へと近づけたのがアガサ・クリスティなわけだが。

 しかし僕はアガサ・クリスティを好んで読んでいた分、コナン・ドイルの小説は随分批判的な目で読むことになってしまった。僕はシャーロックホームズがあまり好きじゃなかった。少なくとも僕には、ドイルとクリスティはまったく違うジャンルなような気がするのだ。

 署に着き、僕は自分の席へと座って、パソコンの電源をつけた。僕はとりあえず、昨日立てたスレッドを確認した。収穫があるかもしれない。

 そうこうしていると、事務の女の子が湯気を立てたカップを手に僕の席の元に来た。しかし、中身はお茶のようだった。

「コーヒー、切らしているんです」

 僕は少なからずがっかりした。彼女のコーヒーは美味しかったし、コーヒーを飲むことは仕事をする上でのルーチンへとなりつつあったからだ。

 しかし、お茶だって悪くない。カフェインは少ないが、熱い飲み物は疲れを和らげてくれる気がする。

 仕事にスコッチ・ウィスキーを持ち込めたら、と思う。オークの樽で適切に管理された上質なスコッチ・ウィスキーがあれば、僕の気持ちも随分楽になるはずだ。アルコールが生活に陰を落とすなどというのは、禁酒法時代からのマヤカシなのだ。

 スレッドには、何個か書き込みがされていた。中には笑ってしまいたくなるような、バカ丸出しの意見もあったが、興味深いものもあった。

 "私は元々、経産省に勤めていました。そこで度々電脳世界について、査察をすることがありました。私はその際、電脳世界における様々な統計を目にしましたが、原因不明で消息を絶ったユーザーというのはどうやら1日に1人いるかいないか程度で、世間で盛り上がる程たくさん〈暗殺者〉が働いているわけではないようです"

 それは僕に少からざる衝撃を与えた。1日に1人いるかいないか程度...?

 僕はこの情報を報告すべきかどうか迷った。そもそも、この情報を横に流したくなかった。しかしそれ以上に、スレッドへのコメントを警察が信用するというのは、今更ながらどうなのだろうと思った。

 僕はこれを自分の足で調べる必要がある、と思った。他の誰でもなく、僕自身で調べることに意味があるのだ。

 しかし今日はもう署に来てしまったため、ダメだ。相手は逃げるものでもない。

 真理を言うなら、その命題に足があろうがなかろうが、物事から遠ざからないものなど存在しない。しかし、今回に限れば僕とその命題は強固な糸で結ばれているような気がするのだ。絶対的な命題にも、例外は存在する。

 絶対的な命題も、その根底を崩さない限りはその絶対性は損なわれない。それは僕がこれまでの人生で悟ったことの一つだ。

 しかし、そうなると僕は今日何もすることがなくなる。僕も昔は、何もせず給料が貰えることを望んでいたが、いざ座っているだけとなると、これは中々に堪える。何より、社会というものに僕が入り込めていないような感覚に陥るのだ。

 僕はとりあえず、皆がやっているような捜査と同じことをした。然るべき手段で、然るべき情報(しかしその大半は無駄なものである)を得る。

 警察は何故だか、形式的で回りくどい方法を好む。もちろんその回りくどい方法が、結果的に多大なる仕事を生み、経済というものが回っているのだが。もっと時代に合った、無駄を省いた仕事をすべきなのだ。少なくとも、いち警察においては。

 捜査だと言ってインスタントコーヒーでも買ってこようかと思ったが、流石にそれは憚られた。

 仕方なしに、僕は然るべき手段で捜査を続けた。


 皆が仕事を終え帰る頃には、僕の身体は疲労に支配されていた。何せ中身のないことを何時間もやり通したし、精神的な摩擦も多かった。やはり僕らはもう少し簡潔に生きるべきなのだ。

 事務の女の子も仕事を終え、帰ろうとしていた。僕はそこを引き止めて、食事でもどうかと誘った。

 彼女は、「いいわね」と言った。前はフレンチを食べたので、今日はファミレスか何かでいいかなと僕は思った。人はいつだってオシャレな店で高級なワインを高級なグラスで転がしながら、料理に舌鼓を打ちたいわけではない。

 僕は結局近くのファミレスに入った。ここなら彼女がメニューを睨むようなことはないし、僕が奢ることに対して彼女が負い目を感じることもない。何もかもが平和的だ。

 僕と彼女はまずビールを頼んだ。それから僕はドリアを頼み、彼女はハンバーグを頼んだ。

 ここのファミレスは料理が来るのが遅いことで、少し名を馳せていた。しかし、その分他の店より味がいいので、僕は時々ここに来る。

 周りには勉強をしている学生や、それこそ僕たちと同じように仕事帰りらしき大人がたくさんいた。それ故に、僕たちと仕事の話は出来なかった。あまり公にできる話でもないのだ。

 彼女は歴史に関する本を読んでいた。この前僕が、「歴史的に意義のある映画が好きだ」と言ったからかもしれない。

 彼女が読んでいたのは、近代の戦争史のモノだった。彼女はそれについて随分真剣に読んでいた。

「それ、面白い?」

「それは愉快かという質問?」

「いや、興味深いかという意味かな」

「そう意味なら、そうね。面白いわ。大変興味深い」

 彼女は僕と話している間も、本を読んでいた。もしかしたら脊髄反射で僕の質問に答えているに過ぎないのかもしれない。そう思わせるほど、真剣に読んでいたのだ。

「今はどこを読んでいるの?」

「ABCD包囲網」

「太平洋戦争の幕開けも近いわけだ」

 僕がそういうと、彼女は頷いた。

「そうね。正直、この辺は史実を読んでいても十分破滅へと向かっていることが伝わってくるわね。日本はどうしてこんな無謀なことをしたのかしら」

 僕は少し悩んで、それから答えた。

「もちろん僕らが当時のことを推し量ることはできない。ただ、一つの可能性として言うなら、やはり日本を含め枢軸国陣営は経済ブロックを形成できなかったからだろう。持たざる者は、略奪の道を歩まざるを得なかった」

「それが結果的にファシズムを生んだの?」

「そういうことだろうね」

「もし枢軸国が勝っていたらどうなったんだろう?」

「アメリカのサンディエゴかどこかに原爆が落とされただろうね。ただ落とすのはドイツじゃなくて、イタリアかもしれない。ドイツは第二次世界大戦期には、戦略爆撃機を使わなかったから、もしかしたら原爆技術ばかり先に進んで、落とすのは遅れたんじゃないかな」

 僕がそういうと、彼女は納得したのか感心したような顔をしていた。

「フィリップ・K・ディックが枢軸国が勝ったという設定の小説を書いているんだ。読んでみるといいと思う」

「私、前も言った通り平和的な小説が読みたいのよ。血が流れず、セックスもしない小説」

 血が流れず、セックスをしない小説なんてこの時代にあるのだろうか?それは、何百年も昔に忘れ去られてしまったものではないだろうか。

「今君が読んでいる本は血が流れている」

 僕がそう言うと彼女は、「たしかにね」と言った。

「でも、歴史は別よ。歴史は学ばなくちゃいけない。私たちが忘れてしまった記憶を引き出す作業のようなものだもの」

「同意見だな。歴史を学ばなければ-」

 そこで、料理が来た。

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