11.電脳世界〈そうかもしれない〉21時〜
僕と彼女は、いつものホテルの部屋を活動の拠点にすることで合意した。僕らは、部屋で供すべきことについて入念に計画を練った。
しかし、彼女が(おそらく)事務の女の子だったとは驚いた。僕は昨日の彼女の言葉をよく覚えている。その細かい自分の心の揺らぎや、考えたことは無感動という記憶の歪みに吸い取られ思い出せないが、とにかく彼女がそう言ったということはちゃんと覚えている。
彼女の方は、僕のことは気付いていないようだった。僕から告げるべきだろうか?
いや、よそう。彼女を困惑させることは事態を決して良い方向へは運ばないし、何よりそれは彼女自身で気づくことに意味があるような気がした。もし僕から告げれば、僕たちの宿命的な出逢いが、宿命的でなくなってしまうような気がしたのだ。
彼女はラ・マルセイエーズを歌っていた。彼女が歌っていたのは、1番のリフレインのところだった。
Aux armes, citoyens,
Formez vos bataillons,
Marchons, marchons !
Qu'un sang impur
Abreuve nos sillons !
(武器をとれ、同志たちよ、
隊列を組め、
進もう、進もう!
けがらわしい血が
我々の畑の畝を濡らすまで!)
なかなかにいいセンスだ、と僕は思った。ラ・マルセイエーズはフランス革命時に作られた曲だ。それが今日のフランスの国歌にもなっているわけだが、作られたのがフランス人が暴君に対して最も怒りを抱いていた時代であったので、歌詞は基本的に暴力的だ。しかし、その血を血で洗うような歌詞を見ていけば、フランスという国の歩みがよく伝わる。なので、僕は歴史的に意義のある曲だと考えているのだ。
彼女の美しい歌声は、僕をしばしあらゆる危機的な状況に対しての焦りを忘却の彼方へと追いやった。それはまるで、強力な磁石の同じ極同士を近づけたときのように、僕の思念と焦りを引き離した。
「今日のターゲットを教えてくれるかしら」
と彼女は歌うのをやめ、僕にそう尋ねた。
彼女の歌声から解放された僕の思念は、また焦りを引き戻した。もう少し聞いていたかった、と僕は思った。
「君のお待ちかねの、男だ」
僕はターゲットの名前、顔、所在地、その他の暗殺に役立つ基本的な情報を提示した。情報によると、彼は少なくともゲイではないようだった。ゲイなら彼女にできることは少なくなるので、彼女は憤慨しただろう。僕はそういう意味で、心から安心した。
「どれを着て行ったら、うまく誘えるかしら?」
彼女は自分の所有する服の一覧をモニターに映し、僕に見せた。
しかし、ターゲットがどのような性的嗜好を持っているかどうかまでは記載されていなかった。役に立つ情報といえば、それこそゲイじゃないということくらいだ。
「何より君は美しいよ。それは表面的なものだけじゃかく、内面的なものもね」
「殺しの計画を立てている側面があることを知っていても尚、そう思う?」
「もちろん」
事実として、彼女はとても美しかった。どのドレスを着ようと(あるいは何も着なくても)、彼女は夜の空に冴え渡る月のようにおごりに溢れた美しさを纏うだろう。それがバーチャルの作りものだとしても、彼女はそれをより美しく見せる術を知っているのだ。誰にでもできることではない。
「やっぱり背中は出したほうがいいかしら?」
「大抵の男はそうした方が喜ぶ」
「それはあなたも例外ではない?」
「あるいは」と僕は言った。
結局彼女は赤を基調としたシックなドレスにした。背中を露出していて、体のラインがよくわかった。腰、足、全てが細い。やはり、彼女は何かの彫刻のようだった。テーマは、「ジャクリーン婦人」といった感じだろうか。適当だ。
しかし、僕が彼女に度々感じるそういった雰囲気はなんなのだろうか。
彼女の身体を自然でなぞると、あることに気付いた。それは、彼女は全体として、非現実的な見た目をしているということだ。
彼女はなんとなく、現実に存在するのかこちらが困惑してしまうような曖昧さがあった。それは美しさからなるものかもしれないし、あるいは違うかもしれない。しかし、どちらにせよ彼女は、現実から離れた存在のように思えた。それはまるで、神話と現実の混同した、ロマン主義の絵画のようだった。
「これで完璧」と彼女は満足そうに笑った。
確かに、このような女性に誘われて断れば男が廃るというものだ。それに、彼女が話術にも長けていることに、僕はこの数日で気付くことができた。きっと上手く誘い出してくれるはずだ。
そう思うと僕は、トリガーにかけた指に何やら底の知れない力が宿るのを感じた。僕は底が知れない分、それがどの程度のものであるのか測れなかった。
この仕事は、少しの迷いが命取りになることを僕は知っている。気をつけなくてはいけない。
「じゃあ確認」と彼女が言った。「私はターゲットの潜む談話スペースの隣に座って、娼婦の如く話しかける。そして、私が前もって予約した公式のホテルの一室に誘い込む。私がターゲットと談話スペースから出たら、あなたはそこに先回りして、部屋で待つ。入ったら撃つ」
彼女は自分でも確認しながら、そう言った。作戦はシンプルだったが、彼女のおかげでそれは僕が行うよりも遥かに効率が良く、安全だった。
「そして」と僕は言った。「間違って君を撃たないこと」
「もちろん」と彼女は言った。
僕たちはモノレールに乗って、敵陣へと赴いた。僕がこの前女性を誘って撃ち殺した談話スペースとは違って、騒がしかった。データにはそこまで書いていなかったし、僕も彼女もそこまでは考えていなかった。
どうみても彼女のシックなドレスは場違いだった。
「どうしようか?着替えたほうがいいと思うけど、ここの着替え場所は空いているかな」
「私見てくるわよ」
彼女はそういって、着替え場所へと向かった。なるたけ目立たないよう、細心の注意を払って。
1分後、彼女はこの場にふさわしいミニスカート姿で出てきた。彼女の持つ月のような美しさとは違ったが、それはそれで未開拓の魅力があった。
彼女は談話スペースへと入っていき、ターゲットに接近した。ターゲットはチャラチャラとした格好をしていた。
「隣に座ってもいい?」
「え?あ、べつにいいけど」
彼は目を逸らしてそう答えた。僕はそれを見て、彼は見た目の割に人に話しかけるのが苦手なきらいがあることに気がついた。僕が気付いたということは、彼女も気付いたはずだ。
「ねぇ、私思うんだけど、こういう場所でお酒の力を借りずに人と仲良くなるって、割に難しいわよね?」
「そうかもしれない」
彼はとても神経質そうで、受け答えもなんだかぎこちなかった。
「いっつもこの談話スペースにくるの?」
「まあ」
「ここはちょっと、はっきりいって騒がしすぎると思うけど」
「君みたいに聡明そうな女性には、そう映るだろうな」
彼女は目を光らせた。今の発言で、自分への好意を読み取ったのだ。彼女は彼に何かしらのメッセージを送ったようだった。それを見て、彼は頬を赤らめた。
「まじに?」
「ええ、まじに」
ホテルに誘ったのだ、と僕は判断した。僕はすぐさまターミナルに行き、ホテルへと向かった。今回はいつものホテルは避けた。路線を間違わないようにしなくてはならない。
ホテルについて、彼女から指定されていた部屋に入った。部屋は豪華絢爛というよりは、ムードを重視した部屋のように思えた。
僕はベッドとベッドの間に屈んで、隠れた。あとは入ってきたら撃つ、それだけだ。
いつもは自分のペースで撃つので対して緊張はしないが、今日は他人のペースに合わせている分、妙な緊張感があった。
他人のペースで歩くと疲れやすいのと同じようなことだ。僕たちは自分のペースで歩むことによって、日々均衡を保っているのだと感じた。
どれほど時間がたっただろうか。いや、時間にしたら数分しか経っていない。しかし、緊張感が僕の時間の概念を歪めているのだ。
時計を見ると、秒針が酷く遅い動きをしているように見えた。秒針は1秒を正確かつ確実に刻んでいるのに、もっと根本が破綻していて、時間というものが狂っている...そんな感じがした。
10分ほど(しかし僕にとってはそれは永久に近かった)で、彼らは部屋に入ってきた。
彼女が右側のベッドに腰掛ける。跳ねるような音がした。
「あなたもそこに座ったら?」
彼女がそう言うと、彼は照れ臭そうに(屈んでいるため、僕はその光景を見ることができないが、それは映像のように僕の頭の中で再生された)、左のベッドに座った。
彼女が、「今よ」と言った。僕はそれを合図に立ち上がった。
彼は一瞬声をあげたが、それが言葉という形になる前に、僕は引き金を引いた。彼は砂のように消えて、無くなった。
「私たち、やっぱり悪くないコンビよ」
「そうかもしれない」
僕は心の中でもう一度、そうかもしれない、と唱えた。
「いつもはこうはいかないでしょ?」
「うん、君が魅力的なおかげだ。ありがとう」
僕がそう言うと、彼女は満足そうに笑った。
「ところで」と彼女が言った。「ところで、男が相手の場合、いつもはどうしているの?」
「基本的には相手が人気のいないところに行くのを待つ。それがダメだったら、公安のフリをして何処かへ連れて行く。でもこれはバカにしか通用しない。賢明な人は、公安が手帳も見せないなんて怪しいと気付くから。ゲイだったら話は早いんだけどね。女性相手とやることは変わらないから。でも、ゲイじゃなくてバカでも無ければ、これはまた難しい問題だ。今のところ、いつもゲイかバカだから助かっているけど」
僕がそう言うと、彼女は呆れた顔で言った。
「あなた、私に出会わなければいつか捕まってたわよ」
「そうかもしれない」
僕は心の中でもう一度、そうかもしれない、と唱えた。
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