10.現実世界〈歴史が教えてくれること〉9時〜

 今日は、朝から騒がしかった。人々は皆、ミレーの「種をまく人」のような走り方で、署内を走り回っていた。おそらく、一向に手掛かりがつかめない現状に焦り始めているのだろう。

 同僚達はずっとパソコンとにらめっこをしていた。そこには真実など書いていないぜ、と言ってやりたかった。そう、パソコンに真実などは書いていない。

 僕が警察に入った頃、上司に言われた言葉を思い出した。"捜査は足でするんだ"と僕はその時言われたのだが、この言葉は僕に少からざる影響を与えた。たしかにパソコンでの捜査はある程度必要だ。特に電脳世界についての事件を扱うなら、それはより顕著なものとなる。しかし、結局のところ我々は足で調べに行かなくてはならないのだ。

 ただ、ハリスン氏のところはこの前行き、僕はこれ以上の収穫は望めないと判断した。僕はとにかく、

 僕は深淵の中に足を踏み込んでしまったような気持ちになった。入り口はあるが、出口はない建物のようなものだ。あるいは、魚を捕まえるトラップのようなものだ。どちらにせよ、

 僕が思案していると、事務の女の子が話しかけてきた。

「コーヒーはいかがですか?」

 彼女はもう僕のコーヒーを入れていた。ブラックだ。

「うん、もらうよ。ありがとう」

 僕が受け取ろうとすると、彼女は屈んで僕の耳元で小さく「仕事うまくいってないの?」て尋ねてきた。

 僕はコーヒーを受け取りながら、黙って頷いた。うまくいっていないどころではない。彼らの足跡も何もかも見つけていないのだ。

 コーヒーはやはり美味かった。彼女がコーヒーを入れると、たとえそれが水道水で作られていても、清らかな山嶺でこされた冷たく繊細な水のように思えたし、インスタントコーヒーは世界一のバリスタがひいたように滑らかな苦味を得た。これが僕の心理的な作用によるものなのかはわからないが、どちらにせよ僕はきっと彼女のことが好きなのだ。

 それは恋愛的なものとも言えず友情的とも言えない、もっと深いものだった。名状し難いそれは、僕を酷く困惑させた。

 彼女はにこやかに僕がコーヒーを飲む様子を眺めていた。それはまるであらゆる生命を慈しむ聖母のようだった。

 そんな彼女を見ていて、僕はこの前彼女の家を訪れた時に疑問に思ったことを尋ねたい気持ちに駆られた。警察たるもの、探究心が芽生えたら行動せよ。僕の深層心理がそう告げた。

「ねぇ、この前君の部屋をチラッと見たんだけど、おびただしい数のコンピュータがあった。あれはおそらく君の"装置"なんだろう。でも、それにしてもあの付属の機械類はかなりだ。君はもしかして、コンピュータとかそういうのが得意なの?」

 彼女は微笑んで、僕の携帯にメールを送った。

 そこには「仕事が終わったら私のところに来て。そこで教えてあげる」と書かれていた。

 やれやれ、と僕は思って仕事に取り掛かろうと思ったが、僕はなんの仕事をしていたのだ?思えば僕はまだ何も仕事をしていなかったのだ。

 振り返ると、彼女はもう自分の席で事務の仕事をこなしていた。時には電話を受けていた。電話を首で挟んでメモを取る姿は、首を傾げる猛禽類のように見えた。これを彼女に伝えたら怒るだろうか。賢そうだ、という褒め言葉だと弁解しても、彼女は嫌がるような気がした。多分彼女は自分のことがあまり愛せていないのだ。

 僕は仕方がないので、捜査に取り掛かることにした。はっきり言って気は進まない。僕は多分警察に向いていないのだ。直接公安委員会から推薦が来なければおそらく僕はこんな仕事引き受けなかっただろう。本当は小説家になりたかったのだ。フィリップ・k・ディックや、ジョージ・オーウェルのような偉大な作家に僕は憧れていた。

 僕は僕なりの仕事の仕方をすることにした。皆が警察独自の界隈を探っている中、僕は一般人が利用するインターネットのサイトを開いた。一般人(その大方がニートと呼ばれる人だが)が、国家よりも有能であるケースがあることを、僕は知っていた。かつてインターネットのサイトと諸外国の会社がサイバー戦争状態となり、一時国交が危なくなるような事件もあったのだ。警察はあまりに一般人というものを軽視しすぎているのだ。

 僕はサイトに、「暗殺者」についての情報を募るようなスレッドを立てた。インターネットの学術的な分野のサイトには、時々元官僚や、その他の学問の最先端にかつて名前を連ねていたような人物が現れることがある。つまり、そういった人たちを捕まえるのが僕の作戦な訳だ。

 しかし、この状況を同僚が見たらどう思うだろうか。少なくとも僕は今刑事らしいことをしていない。もちろん僕は今仕事をしているし、今行っていることは重要な捜査の一環だ。しかし、僕は人間が形式を好む生き物であるということを、遥か前から心得ている。

 少なくとも僕は形式的には、

 何故こうも人間は、意味のないものを追いかけるのだろう?何故中身のあるアウェイより、中身のない王道を好むのだろう?

 考えても意味はない。僕は背後に気配を感じると、Excelを開くようにした。Excelにはでっち上げの表を作って、さも僕は何か形式的に作業をしているように見せかけた。

 時に数字と言うものは、文字よりも物を語る。それもまた歴史が教えてくれることの一つだ。「

 歴史というのは思うに長い間の人の歩みを統計にし、それにストーリーを後付けしたものに過ぎないのではないだろうか。細かくディティールを見ていけば、その細部は時代ごとの人々の行動を統計とし、それらを連続させ(パラパラ漫画のようものだ)、見せているだけなのだ。しかし、統計が物語という形を得ることで、それは格段に人に伝えやすくなり、また親しみやすくなった。歴史というのは、そういった意義があるのだ。

 しかし、今の学生などは歴史をあまり好まないらしい。過去から何を学べばいいのかわからないのだ。僕はまずそこから教えるべきなのだと思う。歴史を学ぶ意義を。

 コーヒーがもう一杯飲みたくなったが、彼女は忙しそうにしていた。仕方がないので僕は自動販売機でコーヒーを買おうと思った。

 しかし、いざ買おうとすると、僕の財布には一万円札が何枚か入っているのみであることに気づいた。金は持っているのに、目の前のコーヒーが買えないというのは、僕を酷く惨めな気持ちにさせた。いったい僕が何をしたというのだ。

 仕方がない(僕は1日に何回『仕方がない』と思えばいいのだろう?)ので、僕は給湯室に行き、自分でお茶を入れた。コーヒーを入れなかったのは、彼女の入れたものに慣れてしまったからだ。

 お茶も悪くはなかった。しかし署内で出されるものにはそれなりに意味があるのだ。つまりカフェインの有無だ。少なくとも、僕はお茶では目は覚めなかった。


 そのようにお茶の微々たるカフェインを頼りに、(時々Excelに意味のない数字を打ち込みながら)仕事をこなした。

 あまり意味のあると思った情報は集まらなかった。しかし、インターネットというのは深夜に栄えるもののはずだ。明日になってれば有益な情報の一つや二つは現れるかもしれない。

 仕事も終わったので、僕は事務の女の子のもとへ行った。

「昼間、言ったことを教えてくれないか?」

「あなたは警察として私にそれを尋ねている?」

「どうだろう?」と僕は言った。「いや、僕個人として、君という個人に尋ねる」

 彼女は「よろしい」と言った。どうやら僕は正解したらしかった。

「私はあれで電脳世界のセキュリティを突破して、色々なことをしているの」

「色々なこと?」

「例えば...」と彼女は言った。「例えば、ログの改竄とか」

 ログの改竄...?いや、まさか...

「ログの改竄なんて、並の知識じゃできない」

「私は並大抵じゃない知識を有しているのよ」

「それなのにどうして事務の仕事なんてしているの?その気になれば、かなりすごい職につけたんじゃないのかな」

 彼女は寂しそうに笑った。

「私の能力は破壊的だもの」

 僕の耳にはその言葉がずっと残った。

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