9.電脳世界〈自分の心がわかる人なんていない〉22時〜
僕は金に興味があるかと聞かれれば、おそらくNOと答える。しかし、功利主義に基づいて行動するには、どうにも金の損得を考慮しなくてはならない、と僕は考えた。矛盾を抱えることもまた、功利主義の嗜みなのだと僕は思う。
なぜ殺しを続けねばならないのか、と僕は思った。そもそも僕にはその必要がないのだ。
しかし、大金をちらつかされると僕の思考は固まってしまう。たった一人殺せばこれだけの、利益が生まれるのだ、と。
これはある種の病気なのかもしれない。必要としていないものを欲しがり続ける。アルコール中毒とか、麻薬中毒とかそういうものと本質的にはなんら変わらないのだ。僕は利益というものに、渇きを感じるのだ。
僕は今日彼女と仕事の打ち合わせをしようとしていた。別に約束したわけじゃない。ただ、なんとなくホテルに行けば彼女がいるような気がした。シックスセンス、というやつなのかもしれない。
15番地に着き、僕はいつものようにホテルへと向かった。ロビーには彼女がいなかった。僕は仕方なく、アンドロイドに尋ねようと考えた。しかし、僕はあることに気づく。そう、僕は彼女の名前を知らないのだ。名前がわからなければ、尋ねようがない。さあどうしたものか。
このまま帰るというのも、なんだか違う。僕の心はもう彼女と話すように出来上がっていたし、仕事の話はいずれせねばならないだろう。
僕はホテルの一階にある、談話スペースに座り、来るかわからない彼女を待つことにした。
サンドイッチがあれば最高なのだが、と思った。何も食わず、そして何も読まずにホテルに出入りする人を見張るというのは中々に辛いものがある。こんなことをしていたら、人々の表情から心情の一つくらい察知できる能力が身についてしまいそうだ。
時計を見ると、もう23時だった。今日はもう来ないかもしれないな、と思ったが、そもそも彼女だって昼間は仕事があるのだから、23時に来たっておかしくはない。
僕は「待つ人」という題の絵画のように(僕は常に何かを芸術作品の題名に例えている気がする)、彼女を待っていた。「待ち人、来たる」と心で唱えながら。
もう諦めて帰ろうかと思った時分、後ろから聞いたことのある声が聞こえた。
「あら、どうしたの?あなた」
待ち人、来たる。
「君を待っていた」
「私を?どうして?」
「仕事の話をしようと思って」
僕がそういうと、「あぁ、そういうことね」と彼女が言った。「今部屋出たんだけど、もう一回部屋取り直そうかしら」
僕は「ごめん」と言って、彼女に着いて行った。
彼女は前と同じ部屋を用意した。煌びやかな部屋には何回入っても慣れない気がする。
「談話スペースじゃ話しづらい内容なのがアレよね」
「たしかに」
言われてみれば、僕達はこの国においてかなりのアウトローな仕事をしようとしているわけだ。職業病というべきか、僕は人が大勢いる場で仕事については絶対に話さないという癖がついていた。良い兆候とも言えるが、人として大事な部分が欠落し始めたような気もする。
なんだか僕は得たものと失ったものを照らし合わせて、どちらがより大きいものかどうか測るということばかりをしているような気がした。人々は誰しもがこんなに色々なものを失っているのだろうか?それとも、失うというのは僕にとっての、ある種のテーゼなのだろうか。
僕は"失われた時間"という表現が好きだ。プルーストの影響かもしれない。なんにせよ、僕の時間(あるいは人間性)は、今の仕事によって奪われてしまったのだ。
それに比べて僕は何を得たというのだ?彼女という存在を得た。それは時間と比べられるものだろうか。そもそも、時間と比べられるものなんてあるのだろうか?
気づくと、深い迷いに僕は落ちそうになっていた。彼女は心配そうにそれを見ていた。
「あなた、顔色悪いわよ?この世界において顔色悪いなんてよっぽどよ?」
「大丈夫。少し考え事をしていたんだ」
「あなた、深淵は見過ぎちゃだめよ。こちらが深淵を覗く時...」
「深淵もまたこちらを覗いている」
「そりゃ知ってるわよね」
彼女は哲学者とかそういうのが好きなのだろうか。僕はニーチェは読んだが、正直ほとんど頭に入らなかった。ニーチェは散文的すぎるのだ。「ツァラトゥストラはかく語りき」にせよ、「善悪の彼岸」にせよ。
「さて、仕事の話よね」
彼女が切り出した。そう、仕事の話である。
「つまり、僕は今後の方針のようなものを立てたい。もちろんただ目先の目標を二人で協力して殺すというやり方はある。しかし、複雑に込み合った仕事だから、やはり方向性は決めておくべきだと思う。僕達はどちらの方角は進んでいくのかをさ」
計画性というのも、僕が仕事を通して学んだことの一つだ。現に彼女と協力するようになった経緯だって、僕の無計画ゆえなのだ。教訓、計画すること風の如く。ありそうだ。
「計画。そう、私たちには計画が必要。何しろ命のやりとりだもの」彼女は言った。「計画は細かいに越したことがない」
「そう、冷徹な暗殺者と天才クラッカーが合わさったところで、慎重でなければ意味がない」
実際、自らの無謬性を信じて疑わなかったばかりに破滅の一途を辿った例は歴史を見れば幾度となくあるのだ。思うに歴史を学ぶ意義とは、こういった教訓を見出すことにあるのではないだろうか。愚者は経験に学ぶが、賢人は歴史に学ぶのだ。特に中国史は学ぶべきところがたくさんある。いくつもの王朝が興亡したところなので、その分何をすれば滅び、何をすれば栄えるのかが見えてくるのだ。
「さて、じゃあまず私としてはこういう流れを望む、という提案をまずさせてもらうわね。異存は?」
「ないよ」
「よろしい」
彼女はそう言って、話し始めた。
「まず、私達は組織の命令に従って、出来るだけ多くのユーザーを狩る。そして、そこから最善というものを学ぶ。おそらくそれはあなたが熟知しているのでしょうけど、二人でやるならどういったやり方がいいのか、模索しましょう。最初は効率が悪いかもしれないけど、一度コツを掴んだらこっちのものよ。何せ私は優秀なクラッカーだからね。そういうのは滅法得意なわけ。監視カメラだって、ある程度なら潰せるかもしれない」
彼女が提示した意見はシンプルなものだった。つまりは慣れるまで仕事を続けるということだ。しかし、彼女はまだ隠した計画があるようだった。そもそも彼女がこの程度で満足するわけがないのだ。
「他にまだ作戦があるんだね?」
「その通り」彼女はニヤリと笑った。
「私達はそれと同時進行で、あなたの同僚を探す。つまり、暗殺者...あなたの言葉を借りるなら、ブレード・ガンナーを探すの。仲間がいればよりいいはずだし、それに...」
「それに?」
「警察だって、あなたたちの存在に対して動いているんでしょう?」
「まさしく」
なんといっても僕がそれを担当しているのだ。たしかに、来るべき公安との対決は視野に入れておくべきなのかもしれない。しかし、僕はその時どうなるのだろう。もちろん、バレないようにはする。しかし、僕の正体が突き止められたら?署内で、疑わしいと思われたら?いや、よそう。まさか内部に自分たちが追う存在がいるなんて思うわけがないのだ。だから僕はこれまで何不自由なく人を殺してきたじゃないか。そもそも、僕が実際電脳世界に入って公安として捜査する時、ブレード・ガンナーとしてのオーウェルはいない。一つの太陽から、二つ影が作られてはいけないのだ。
「仲間を増やし、最終的には公安を殺す手段をも考えなきゃいけない」
僕は確認するように呟いた。その事実は言葉に出されて、初めて形を得たようだった。公安を殺す。
「そう。おそらく公安もあなたの持ってる銃と同じようなものを携帯するでしょうし、仲間は作らなきゃいけない」
やれやれ、と僕は思った。僕はいつの間にこんな面倒な事態に巻き込まれてしまったのだ?いや、正確には巻き込まれたのではなく自分から進んだのだが、そもそも僕にはこの仕事を引き受ける他道はなかったじゃないか。引き受けなければ消されるのは確実なのだ。
それに、もともとは僕はただターゲットを処理するだけだった。しかし今は公安が動き、僕の存在は少なからず危機に晒されている。
「だけど、僕は君が思っている以上に何も知らないんだ。同業者の存在の話は全く聞かない。でもそれは当たり前だ。なぜなら僕だって周りに自分の仕事を話したことはないから。僕達の仕事は秘密の上で成り立つものなんだ。そうだろう?」
「もちろんそうよ」彼女は言った。そして、空気を丁寧に震わせるように、息をした。息のする音だけが聞こえたが、僕にはそれが本当の音なのか判断がつかなかった。あるいはそれはただの空気の震えなのかもしれなかった。
「でも、私なら探せる。あなた、私がただ男を誘う娼婦のようなことしかしないと思っていたの?あのね、私は私の能力をあなたに貸すために手伝うと言っているのよ」
「貸す?」僕は言った。「僕には返すものがない」
すると彼女は僕に近づき、耳を僕の胸に当てた。自分の鼓動が(鼓動まで再現するのだから、電脳世界もなかなかだ)聞こえた。僕の鼓動はテンポの遅いメトロノームのように、一定のリズムで音を立てていた。部屋は静かで、それがより僕の鼓動を明確なものにしていた。
「あなたはもう十分に私にモノを返してくれている。私が与えた以上にね」
「それはなんのことだろう?」
「答えたら減っちゃうものなの」
「それなら答えなくてもいい」
僕の鼓動はもう先ほどまでは激しく鳴っていなかった。まるで僕の胸と彼女の耳が、一つのものになってしまったかのように。僕が胸から音を出せば、それを彼女が自分の耳で拾う。そしてその拾った音は当てのないエネルギーとしてどこかへと消えていく。そんな風に考えた。
「準備が必要なの」
「準備?」
「あなたの仲間を探すための準備よ」
「それはわかってるけど、具体的にどんなことをするんだろう?」
「それは秘密よ」彼女は人差し指を自分の唇に当て、やわらかく笑った。
それから彼女は思い直したように言った。
「あなたは警察として仕事をしていて、何か情報を掴んでいないの?つまり、警察がどの段階まで調べているだとか」
「今の時点ではほとんど何もわかっていないと思う。もちろん僕は組織によって完全な透明人間にしてもらっているからなんだけど」
彼女は「ふうん」と言った。「でもあなたも大変よね。自分を追っかける仕事をするなんて。精神を強く保たないとできたことじゃない」
「たしかにそうかもしれない。でも、実のところ仕事の時僕がどういう風に物事を考えていたのか、あまり覚えていないんだ。もちろん仕事内容は覚えているけど、なんとなく無感動というか」
「それはきっとあなたの心が救済を求めているからなのよ」と彼女は言った。「それだけ辛いことをあなたはしている」
「救済?」
「つまり、あなたの脳があなた自身を傷つけないために記憶の一部からそれらを消しているのよ。その記憶の歪みはあなたを守るためのものなのよ」
僕を守るためのもの。僕は守られている。
「あなたにだって逃げる権利はある」
僕にだって逃げる権利がある。
本当にあるのだろうか?考えたこともなかった。僕の目の前には常に逃げるなんて選択肢は無かったし、あったとしても選ぶことはなかったように思う。しかし、それは僕の心が本当に望んだものなのだろうか。僕には僕の心がわからなかった。まるで、心が独立した機関であるかのように。
「自分の心がわかる人なんていない」
僕は結論づけるようにそう言った。
彼女は優しく、僕に言った。
「いつかわかるわよ、きっと」
それから僕達はもう少し詳しく計画を立てた。つまり、何日を誰を殺すかといったことだ。そして、その間に同時並行して彼女のやり方で僕の仲間を探す。僕はそれに出来る限り協力する。
「もしかしたら、私たちが殺す相手は、ブレード・ガンナーについて何か知っているかもしれない」
それは僕も考えていたことだった。彼らは並外れた知識を有している。なにせ、ここまで大きな存在となった電脳世界の厳しいセキュリティを突破しているのだ。僕達については何か知っているのかもしれない。
「ただ彼らからそれを聞き出すのは難しいだろうな」
「そう、簡単なことではないと思う」
それについて語ることは、自分が違法ユーザーだと認めることに等しいからだ。彼らがそういった知識を有していたとして、それを知っていたことを露見するようなことをするだろうか。
「なら、私も違法ユーザーなの。協力しませんか?って申し出たら、どうかな。そうすればもしかしたら君への警戒心を捨て、ブレード・ガンナーの有益な情報を提供してくれるかもしれない。例えば、ここらへんにブレード・ガンナーが現れるだとか」
「確かに、私ならそれも可能でしょうね。そもそも、私がやってることだって違法なわけだし。ただ彼らと違って私は全く足跡を残さない。あなたと同じ透明人間なの」
「しかもそれを自分で成し遂げている」
「その通り」
僕はため息をついた。僕はただ運良く(あるいは悪く)暗殺稼業を引き受けているだけだが、彼女はあまりに有能すぎた。僕は大きな才能を今潰そうとしているのではあるまいか。
「君は本当に、僕に力を貸していいと思っている?」
僕は思わず聞いた。きっと聞くべきではなかったんだと思う。しかし、聞かずにはいられなかったのだ。
「前も言ったでしょ?私はわりにあなたのことが好きなのよ」
彼女が少し悲しそうな顔をしていたように見えたのは、多分気のせいじゃないだろう。
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