8.現実世界〈愚かなこと〉17時〜

 事務の女の子の家は中々に素晴らしかった。テレビは大きいし、いい匂いがした。カーテンもなかなかにセンスが良く、全体的に暗い部屋の雰囲気は、小説の世界に出てきそうな程だった。

 彼女は僕に料理を振る舞ってくれた。パエリアをメインに、ワインが合いそうなものを沢山作ってくれた。全てがワインの為に作られた空間のように感じた。しかし、このワインは安物の甘口ワインだった。貴腐ワインは、ない。

 僕はその作られた荘重な空気(例えその一部が安物のワインだとしても、それは荘重なものだった)を破壊しないよう気を付けた。僕は雛を慈しむ親鳥のように、優しく彼女を抱いて見せた。それには性的な意味はなく、純粋なものだった。

 彼女がマッシュルームの入ったアヒージョを作ってくれた。僕たちはオリーブオイルのほのかな甘さを感じながら、それをパンに付けて食べた。オリーブオイルを吸って柔らかくなったパンは、僕のすぐに揺らぐ意志を思わせた。熱いオリーブオイルは、彼女を表しているのかもしれない。

 テレビでは映画をやっていた。それは、かなり古い映画を扱うチャンネルだった。白黒の戦争映画が多かったが、たまにSFもやっていた。今日やっているのは、「西部戦線異常なし」だった。僕はこういった歴史的な映画が好きだった。

 あまりに僕が夢中になって見ていたので、彼女は不思議に思ったのか尋ねた。

「こういう映画が好きなの?」

「まあね。歴史的に意義のある映画が好きだ」

「シンドラーのリストは?」

「もちろん好きだよ」

「私はあまり好きじゃないな。見てて、後ろ暗い気持ちにならない?」

「戦争を扱うんだから、それでいいんだよ。西部戦線異常なし、だってちゃんと見てごらんよ。これは実際にあったことで、とてつもなくリアリティーがある」

「見ているわよ。人はかつて愚かでした。そういう話でしょう?」

「今だって十分愚かだ」

 自分を含めて、と僕は心の中で言った。

「冷戦が作り上げた朝鮮半島の分裂は、今も続いているし、中東は今も銃声がやまない」

「だから私は武器が嫌い」

「君みたいな人ばかりな世界なら、戦争なんてなかっただろうな」

「でも私みたいな人しかいなかったら、きっと人類は早々に滅んだわよ」

 彼女はそう言った。「繁殖に興味ないんだもの。セックスは好きだけど」

「結婚願望はないの?」

「今のところはね」

 僕じゃだめだろうか、その言葉はギリギリ飲み込めた。何にせよ、僕は彼女に恋愛感情を持つべきではないのだ。この世には持てば周りを全て不幸にさせるものがある。彼女の言う武器も、きっとそれなのだろう。

 気づくと彼女は微かに音を立てながら、静かに寝ていた。スースーという寝息は決して不快なものではなく、寧ろ荘重な空気を幻想的なものへと変える聖者が吹く魔笛のようだった。

 僕は人差し指で彼女の唇をなぞった。今彼女が起きたら弁解しようがない。しかし、僕は彼女とこの前セックスしたのだから、関係ないかとも思った。僕の愛しく思うこの気持ちが伝わるなら、それはそれでいいではないか、とさえ思う。

 映画はもう終わっていた。僕はテレビを消して、ポケットに忍ばせた文庫本を読むことにした。僕は、「キャッチャーインザライ」を出して読んだ。

 ページをめくる音だけがその空間に響いた。サリンジャーの美しい会話表現と、彼女の魔笛のような寝息。素敵なカーテン。ワインの微かな香り。心を落ち着かせるには十分すぎる条件だ、と僕は思った。フィッツジェラルドの文章も美しいが、サリンジャーもやはり素晴らしい文章を書く。会話はやはり、英語で書かれた小説に限るものだ、と僕は思う。

 僕は本を読む傍、彼女の戦争や武器に対する考えについて、考えた。

 確かに愚かだったのかもしれない。ドイツのポーランド侵攻も、日本の真珠湾攻撃も、もっと遡るならサライェヴォ事件やイギリスの二枚舌外交(世間的には三枚舌外交と呼ぶことが多いようだが、その後に及ぼした影響を考えるならサイクス・ピコ協定は数えず、二枚舌と呼ぶ方がより正しいと僕は思う)も、全て愚かだったのかもしれない。その時代は、愚かな人間が愚かな私欲のために愚かな行為をし、愚かな結末を生んだ、そういう時代だったのだ。武器を持つと人は愚かになる。それは僕だって例外じゃないのだ。あるいは、彼女は僕にそれを伝えているのかもしれない。武器を持って、愚かになるべからず。僕はそう心の中で唱えた。

 僕は、決して自分のためじゃなく誰かの為に生きることができるだろうか。つまり、カムパネルラのように。

 それが彼女のためだったらいいな、と思う。僕がそれを彼女に告げれば多分、「私のために死ぬなんて愚かなことはしないでよ」と、彼女は嫌がるだろう。彼女の乾いた性格なら、そういうはずだ。誰かの為に死ぬというのは決して美しいことではない、と考えているのだ。

 しかし、かつてはそういうのが美とされた時代があることを僕は知っている。そして、それは今も僕たちの心に少からざる禍根が残っているものであることも。

 やはりこの部屋は嫌に小説的だな、と思った。

 僕はガールフレンドが寝ているのを他所に、本を読んでいた。本は「キャッチャーインザライ」だ。ありそうな設定だ。

 そのうち彼女が起きた。

「私、どのくらい寝ていた?」

「1時間とちょっとかな」

「どうして起こしてくれなかったの?」

「君の寝顔が起こして欲しくないように見えたから」

 僕がそういうと彼女は呆れたような顔をしながら言った。

「あのねぇ、起こして欲しそうな顔して寝る人なんていやしないわよ。誰しも心の中では深い睡眠の谷底に落ちることを望んでいるんだから。でも現実として起きなければならないから、私達は自分の心に嘘をついてストッパーをかけるんじゃない。そうでしょう?」「確かにそうだ」と僕は言った。起こして欲しそうな顔してなる人なんていやしない。

「でも黙って帰ったりはしないから安心してよ」

「そんな心配してないわよ。あなたはそんな人じゃないし、それに」と彼女は言った。「私人が帰ると気づくのよ、寝てても」

「どうして?」

「経験が私にその能力を授けたのよ」

「経験が君にそうさせた」

「そうよ」

「その経験について尋ねるのは、失礼に当たったりするのかな」

「多かれ少なかれね」

「じゃあ聞かないことにするよ」

「そう。聞かない方が幸せなことなんてこの世には沢山あるのよ。いや、ほぼそれと言っても過言じゃないでしょうね」

 そうかもしれない、と僕は思った。特に仕事をし始めてから僕はそう考えることが増えた。結局警察だって正義のもとに働くような集団ではなかったのだ。僕は今暗殺者を秘密裏に殺す役目を背負っている。それが正義のすることだろうか。僕は仕事の中で、正義感というものを徐々に失いつつあるのだと感じた。それはまるで、「西部戦線異常なし」のようだった。

 別にこの世界がそれこそオーウェル的な世界だとは思わない。しかし、それから決して遠くはないような絶望の風が吹いているようにも感じた。

 僕は電脳世界について調べるようになり、少なからず取締る側からの電脳世界を覗くようになってから、不吉なものを感じざるを得なかった。もしかしたら、僕は深淵に足を踏み入れているのかもしれない、という漠然とした不安が僕の心に陰りを与えた。

「ねぇ、そんなに暗い顔をしないで?決して嫌なことばかりが人生じゃないわよ」

「本当にそうかな?」

「そうよ。じゃなきゃ救いがないじゃない」

 救い、と彼女はそれを表現した。死だって、あるいは救いなのではないかと僕は考えた。人生には救いがないのではなく、死という最終的な救済があるので、その過程で救いがもたらされないだけなのだ、と。

 そんなことを考えているうちに僕はトイレに行きたくなった。安物ワインだと気を使わないので、飲み過ぎてしまうのだ。

「トイレ借りていいかな?」

「玄関の横よ」

「ありがとう」

 僕はリビングを出て、玄関の方へと歩いた。玄関に着くと、言われた通りトイレが右横にあった。しかし、僕は天邪鬼なきらいがあるのか、左を向いた。左にある部屋はドアが開いていた。その部屋は暗く、人が生活しているような感じがしなかった。事務的な空気がそこにはあつた。

 よく見ると、その部屋にはおびただしい数のコンピュータがあった。なるほど、ここが彼女の電脳世界への転送装置なのか、と思った。

 しかし、それにしてもコンピュータの数が多いような気もした。本も何冊かあったが、それは大抵英語で書かれたものだったりして、パッと見た程度では何の本なのか判断できなかった。

 あまり女性の部屋をじろじろ見るものではない、と僕の心の倫理的な部分を司る機関が警鐘を鳴らした。

 さて、トイレだ。


 トイレをし終わり、僕はリビングへと戻った。彼女は僕が読んでいた、「キャッチャーインザライ」をパラパラとめくっていた。

「面白い?」

「私の人生よりはね」

「君は本は普段読む?」

「わりに読むわよ。そうね、私は結構哲学の本とか読むの。イデアとか、そういうやつをね」

「ジョージオーウェルは?」

「1984年の?」

「そう、1984年の」

「読まないわね。あぁいうくらい未来を描くような話好きじゃないの。でもトマスモアの『ユートピア』は読んだ。あれってユートピアっていいつつ、本当はディストピア文学の先駆けでしたってオチらしいじゃない?」

「そう言われてるね」

「本くらいは希望を読みたいな、私は。私が好きなのは、食べる分だけ作物を作って、何も殺めず、水は井戸で組むっていう生活を描いたような本なの」

「そういう本は今の世の中で出しても売れないだろうな」

「そう、そういう平和な本は今売れないの。売れる条件は血とか不治の病とかそういうのなわけ」

 彼女は世界を蔑むように、そう言った。彼女は多かれ少なかれ、文壇というものに疑問を抱いているようだった。しかし、それは文章というものに対しての愛ゆえであることが、僕にはわかった。

 彼女はウィスキーを出して、それを飲んだ。氷の、カランという音が聞こえた。心地良い氷の音と、目を瞑る彼女を見ていると、僕は不思議な感覚に襲われた。こういう絵画があっただろうか?そんな感覚だ。

「僕にもいれてくれない?それを飲んだら帰ろうかと思う」

「いいわよ」

 彼女は新しいコップを持ってきて、それに氷を入れた。また、カランと音がした。その上にウィスキーに入れて、オンザロックを作った。

 僕はそれを一口飲んだ。

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