5.電脳世界〈ファシスト〉22時〜
僕はホテルに向かって走っていた。彼女と会う約束だったが、場所を指定していなかった。おそらくホテルでいいとは思うが、本当に会えるのかどうか不安になった。
ホテルに着くと、ロビーに彼女が立っていた。彼女はロビーの中央にある柱にもたれていて、僕の目には「待つ人」という題の彫刻のように見えた。僕は、彼女の姿がいちいち芸術作品のように見えることに気がついた。なんとなく創造的で、抽象的なのだ。そこには、彼女の意思が内在しておらず、まるで誰かが僕に何かメッセージを伝えるために、彼女をその都度彫刻しているように思えた。
そのメッセージとは何か、と思ったが、考えても無駄である。なぜなら、彼女は本当に誰に彫刻されたわけではないからだ。彼女には自由意志があり、その行動は彼女なりの行動規範によるものなのだ。
「ごめん、待ったかな?」
僕は言った。時間は指定していなかったし、遅刻というわけではないが、それにしても遅い時間になってしまった。もしかしたら彼女は何時間か待ったかもしれない。
「いいえ、さっき来たところよ」
こんな時間になるまで行けなかったことに、僕は少なからず感謝した。じゃなければ僕は7時過ぎにはここで待っていただろう。
「部屋を予約したの。いきましょう?」
僕たちは、その部屋へと向かった。部屋はとびっきり高いやつで、ドアも鏡の装飾も壁紙も全てが嫌になる程に輝いていた。はっきり言って悪趣味だったが、こういうのが好きな連中も世間には一定数存在するのだろう。
彼女は部屋にあるなかなかに豪華なソファに座った。僕もそれにならって、座った。
しばし静寂が訪れたが、やがて彼女は、僕の方を見て言った。
「私ってあなたのこと、わりに好きなのよ。わかる?」
僕は、「わかるよ」と言った。
「だから、私はあなたに仕事の協力をしてあげる」
僕は驚いて、「協力?」と聞いた。あまりにもそれは、突然のことだったからだ。
僕は、確かめるように言った。
「君は僕に協力する」
「殺しの仕事をね」
「殺しの仕事を君は協力する」
「そういうこと」
「わからないな」と僕は答えた。そう、わからない。
「君がどうして協力するんだ? 僕としては、迷惑はかけたくない。それに、君がいることによってリスクさえあるんじゃないか?」
「私の服装を見てどう思う?」
「綺麗だ」
「そう、綺麗でしょ?」
彼女は赤を基調としたドレスを纏っていた。何世紀も前の上流貴族といった感じだった。
「私がデートに誘えば、こんな美しいお嬢さんに誘われるなんて、なんてラッキーなんだろう? 人々はそう考えるわ。あなた、前回男性相手に苦労してたんじゃない?」
つまり、彼女はこう言っているのだ。私が美貌を使って誘うから、あなたはそこを撃ち殺せ、と。そんなに上手くいくものだろうか、と思った。僕は今まで、ずっと一人でこの仕事をやってきたのだ。
「上手くいくのかな、本当に」
「当たり前じゃない、あなたが以前やってきたことと大して変わらないじゃない。男の場合私が誘うってだけよ」
彼女の意思は固いようだった。それに、彼女はなにをしでかすかわからなかったので、僕の手元に置いておくのも悪くないと思った。
「わかった、協力してもらうよ」
「よろしい」と彼女が言った。
「今日は誰かを殺すの?」
「いいや、今日は殺さない。今日はもう遅いし、明日は友人に会いたい。明後日仕事をしようと思う。集合はホテルのロビーでいい?」
「構わないわよ」と彼女が言った。
「あなた、落ち着いているのね。その、つまり仕事には慣れてしまったの?」
そう言われて、たしかにそうかもしれないと思った。僕は慣れてしまったのだ。自分の手を汚すことに。僕の手は、たしかに血が染み付いているのだ。
「多分ね。一人殺してしまえば、後は変わらないんだ」
「あなたみたいな冷徹に判断を下せる人が、歴史を変えたのよ」
「ヒトラーのように?」
「そうよ。ナポレオンにせよ、ビスマルクにせよ、スターリンにせよ、ね」
「ポルポトにせよ?」
「ポルポトは違うわよ。ねえ、ヒトラーとポルポトが度々並べて比べられるけど、あんなの全然違うのよ。ヒトラーのホロコーストは確かにひどいけど、政治的、指導者的にはやはり天才だったというのが大方の見解でしょう。アウトバーンもフォルクスワーゲンもヒトラーが作ったんだから。でもポルポトは違う。ポルポトは一体何を作ったの? カンボジアは今だって医者もロクにいないのよ」
「確かにそうかもしれない」
ヒトラーは結果的に第二次世界大戦を起こしたが、ドイツを救ったのもまたヒトラーなのだ。
「でも、まさか君は思想をヒトラーに毒されているわけじゃないだろう?虐殺を肯定しているわけではない」
「どうかしら? でも、例えばあなただってヒトラーに近いものがあるんじゃないかしら?」
「どうして?」
「貴方は功利主義に基づいてユーザーを粛清にかけているのでしょう?」
「その表現はどうだろう? なんだかそれじゃあ、全体主義的というか....僕が虐殺をしていた、さらにそれを正当化してるみたいじゃないか」
「違うの?」
「違うよ。迷いも葛藤も、罪悪感もある」
僕は言った。「今まで、何人もこの手で葬った。これは酷く辛いことだよ。だから、僕は相手の情報をせめて忘れないためにファイリングしてるし」
「それ、見せてくれる?」
僕は少し迷ったが、見せる方が贖罪になるような気がした。もちろんそんなのは免罪符になるわけはないが、気持ちの問題だ。僕は、情報を彼女に送った。
「老人。美女。子供も殺してるのね」
「その子は」と僕は言った。「その子は12歳だった。簡単に騙せた。親の友人とかいう適当な理由を使う、よくある方法だよ。なぁ、こんなのが正しいと思うかい?僕は時々わからなくなる」
「貴方は命令に従っているだけでしょう?」
「そうだけど、それは殺しを正当化する理由になり得ない」
「するしかないのよ。貴方はもう手を汚してるし、とっくに陰を歩いているのよ」
「戻れることなら戻りたいよ」
しかし僕は、この仕事を断れば消されてしまうことを知っていた。なぜから、そうでなければこの過度な秘密主義は成り立たないのだから。
「ねえ、貴方って同僚はいないの?」
「いるさ。でも、何人いて、どこにいるかは知らない。何しろ繋がりがない職種だし、秘密主義を貫く我々は味方も誰だか知らないんだ」
「孤独なのね」
「孤独じゃない人間なんていない」
「そうかしら?」
「現にこの電脳世界の外側では、みんな家に一人なんだ。魂はここにあっても、肉体は家に一人なわけだ。そんなのが孤独じゃないなんて言わせない」
「貴方、現実での仕事は?」
「言っても信じない」
「信じるわよ」
そう言う彼女の瞳はとても澄んでいた。まるで、全ての真実を閉じ込めた水晶のようだった。
「警察。電脳世界を担当してる。つまり、自分で自分を追っかけているんだ」
「それで警察の内部には詳しいから、今までこの仕事をやってこれたわけ?」
「そうだろうな」
僕は、自分の立場を考えた。これは確かに有利な立場かもしれない。しかし同時にとても危うい立場にあるのだ。僕は、そんなことに今気づいた。
「ごめん。今日は疲れた。また今度」
「ええ、おやすみなさい」
僕は「おやすみ」と返して、ログアウトした。
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