第2話 家には僕と彼女しかいない

「まあ、大した家じゃないがどうぞ」


 僕は黒い子猫を抱えたまま、玄関のカギを開けて八島鈴(やしま れい)を中へとうながす。


「おじゃまします」


 コトコトと後ろをついてきた彼女は、家の奥に向かって頭を下げた。


「誰もいないから気にすることはない」


 玄関につったったままの彼女は、一向に先に進む気配がない。小さな家の玄関だから人が一人止まると、先に進むことができない。


「どうした。あがりなよ」


 後ろから声を掛けるが、八島鈴はモジモジするばかりだ。


「足も濡れちゃってるから」


 玄関が濡れてしまうと気を使わせちまったか。


「待っていな。今、タオルを持ってくる」


 僕は彼女の横をすり抜けて玄関に上がろうとした。その時、胸に抱えた子猫が暴れて、バランスを崩してしまう。


「あっ」


 振り向いた彼女を巻き込んで、玄関に倒れ込んでしまった。鼻先に触れるやわらかい感触。弾みで玄関先に座り込んだ彼女の胸に自分の顔が埋まっている。


「・・・」


 慌てて起き上がる。


「ご、ごめん」


 顔を赤くした彼女と目が合う。


 やっちまった。


 一瞬にして僕の顔も熱くなる。


「気にしなくていいよ。事故だから」


 優しく微笑んでくれるが、僕の心臓は激しく動揺(どうよう)している。


 僕の手を逃れた黒猫が、濡れた足跡を残しながら廊下をトコトコと走って行ってしまう。


「こらっ。まて」


 気まずさに耐えかねて、子猫を追うふりをして玄関に走り込んだ。彼女の胸の感触が艶めかしく記憶に刻まれている。


 嫌われたかな。子猫を捕まえてぼそりとつぶやく。


「お前のせいだからな」


 泥まみれの子猫をお風呂場に閉じ込めて、バスタオルを持って玄関に戻った。


「拭きなよ。風邪をひくぞ」


「うん」


 濡れた髪をバスタオルで覆って、ポンポンと優しく水分を移し取っていく姿は、ワシャワシャと無造作に拭き上げる妹とは大違いだ。


 やっぱり、学園の神聖ヒロインと呼ばれることはある。動作の一つひとつが、かわいらしくて見惚(みと)れてしまう。


 ボーっと立ちつくす僕。彼女の細い腕がこまめに動いて、バスタオルが首から制服、スカートへと移動していく・・・。


 彼女が下を向くと長い髪がハラリと落ちた。髪をかき上げて耳に乗せる仕草に目が釘付けになる。


「あのー。そんなに見つめられると・・・。その、恥ずかしい」


 ぐわっ。僕としたことが・・・。顔から湯気が噴き出しそうだ。


「ごめん。あんまり綺麗だったから」


 思わず正直な感想を述べてしまう。女子慣れしていないのがバレバレだな。


 ふふっ。っと、彼女は天使みたいにほほ笑んだ。


「あっ。ごめん。足ふき用のタオルを持ってくる」


 まともに目を合わすことさえできない。急いでお風呂場へと駆け戻る。


 ヤバいぞ。八島鈴!想像以上の破壊力だ。心臓が苦しい。


 彼女から見えない位置に立ち、大きく深呼吸をして心を静める。


 すーっ。ふー。


 一回目。


 すすっー。ふふー。


 二回目。


 はーっ。はー。


 三回目。


 ようやく僕の心臓は落ち着きを取り戻す。タオルを二枚と替えのバスタオルをつかんで玄関へと取って返す。


 あっ。


 彼女が腰を屈めて紺色のソックスを引きぬいているところだった。真っ白な生脚が目に飛び込んでくる。


「タオル、ここに置くから」


「ありがとう」


 彼女が言葉を発する前に、俺の足は再びお風呂場へと引き返していた。振り返らずに一言、言い残す。


「子猫を見てくる」


 家には僕と彼女しかいないことをどうしても意識してしまう。バスルームのドアを開けて黒猫を抱きあげる。


「良かった。お前がいてくれて」


 二人っきりじゃないんだと、変な期待を抱こうとする心に言い聞かせた。


 これは人助けであって、彼女にとっての僕は単なるクラスメイトでしかない。余計なことを考えるな。

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