第2話 1.参加することに意義がある (全国選抜社会人選手権)

1.参加することに意義がある (全国選抜社会人選手権)


 本大会における私のテーマは、単なる観戦ではなく、もう一つ突っ込んだ観戦をすることにありました。選手やマネージャー、OBとして参加するのと同じように、しかしながら、全くの部外者、通りがかりのただのオッサンという身分で大会に参加する。


 「全国選抜社会人選手権」での目的は、警視庁と自衛隊の日本拳法をついて知ることです。そして、自衛隊のチームはいくつもあるが警視庁は一つ(1チーム)でしたので、今回は警視庁の試合を中心にして日本拳法(社会人大会)を楽しまさせてもらうことにしたのです。


 大会開始から約1時間、Bコートで警視庁の第一試合(対第32普通科連隊)が始まるようです。

 映画「マトリックス」では、仮想現実の世界に侵入するのに脳髄へプラグを差し込んでなんて、痛そうなことをやっていましたが、私はそんな七面倒くさいことなどやっていられません。


 さて、どうやって仮想現実の世界に入ろうか、なんて思案するまでもありません。 ひとりでに身体が動きだし、私は人混みの中をかいくぐり、なにげない顔をして警視庁チームの後ろに立つ数人の予備選手たちの脇に立ちました。いつもながらの「行き当たりばったり」といいますか、運命に導かれたとでもいうのでしょうか。


 そして、試合開始の礼をしてこちらへ戻ってきた選手たちに向かって、思いもかけずバカでかい声で「警視庁がんばれ!」なんて言葉が出てしまう。コート上の控えの選手たちや監督、私の隣りに立つ補欠の選手たちも、一瞬、怪訝な様子で私を一瞥しますが、すぐにつられて「ファイト!」なんて叫び出す。これで私はマトリックスの世界に入ったのです。

 もっとも、戦う選手たちの魂は現実ですが、警視庁という看板(世界)は仮想現実にすぎない。


 そこで、仮想現実(マトリックス)から現実の世界に入るべく、私は選手や監督たちの後ろで、次にこう叫んだのです。

 「小林多喜二を追い込んだ迫力を見せてくれ!」と。

 淀川長治さんの映画解説ではありませんが、「まあ、平栗。あんたはなんて恐ろしい言葉を吐いたんでしょう。」


 1933年2月20日、小林多喜二が警視庁築地署内で、数時間にわたり2人の警察官に太いステッキで殴られ、死亡した。

 死体は顔以外、全身が内出血で赤紫色に膨れ上がっていたという。

 この事件を受けて、戦後の刑法では、取り調べにおいて「絶対に拷問をしてはならない」という文言が入れられたという。「絶対に」なんて表記は、法律の条文ではあり得ないそうですが、それだけ恒常的に行われていたからなのでしょう。


 さて、この「小林多喜二」の一言(ひとこと)に、強く反応した人間(警察官)が2名いました。監督席に座る一人と、選手席に座る4人の選手の内の一人が後ろを振り返り、ものすごい形相で私の顔を睨めつけました。多分、彼ら二人は関東人にちがいない。

 まあとにかく、こうして多少強引ではありましたが、私の心は彼らの心にガッチリと食い込んだのです。


 こういう(一見)ネガティブなやり方で人の心に入り込むことができれば、ビジネスマンとして大きな仕事をするときには、逆のことをやればいいわけで、河内山宗俊が言ったように「悪に強ければ善にも」というのはそういうことです。


 さて、今度は次鋒の戦いです。

 私は、隣りに立つ防具(胴と股当て)を着けた控えの選手に、春風駘蕩の風で、あれやこれや話しかけました。この方は私の第二声を聞き逃したのでしょうか、全くもってざっくばらんに相手をして下さいました。


 この方を含む、私の「小林多喜二」発言に(敢えて)反応しなかった方々というのは、おそらく関西人ではないだろうか。関西人というのは、関東人に比べて人間が「熟(こな)れて」いる。私のような関東人が苦手な腹芸をごく自然にすんなりとやってしまう。歴史的に三国人との付き合い(戦い)が長いから、なんでもストレートに反応しないで、一旦は知らない素振りをしたり、柔らかく受け止めて、時間をかけながら順応するのがうまいんです。

 丸紅という商社では、東京本社の社長になるには、大阪本社で5年間修行をしなければならないという不文律があるそうです。東京の警視庁という無骨な組織も、人間的に丸い・熟れた関西人を(日本拳法という枠によって)多く取り入れることで、組織の活性化・柔軟化を意図しているのでしょうか。



 結局、警視庁チームは優勝までに四回、自衛隊のチームと戦ったのですが、私は決勝戦を除く三回の試合に、こうして控えの選手の脇に立ち、その試合ぶりを間近に見ることで「警視庁と自衛隊の日本拳法」を今回、初めて知ることができました。

 警視庁や自衛隊の方々との他愛ない、世間話的な会話の中で心の波長を合わせ、「警視庁VS自衛隊の戦い」にどっぷりと浸かり・感じ・考え・認識し・哲学することができた、ということです。


 警視庁チームの2回目の戦いでは、初回に出場した選手で「小林多喜二」に敏感に反応された方が、今度は控えとして観戦されていらしたので、私はその隣りに立ち、これまたなにげない顔でお話しさせて頂きました。この方にしてみれば、「この野郎」というお気持ちはおありでしたでしょうが、そこは社会人、とりとめのない会話には紳士的に対応して下さいました。




○ 警視庁の日本拳法部とは

 関西では同志社や立命館、関東では国士舘や青山学院大学といった、日本拳法の名門校出身で、しかも主将経験者や大きな大会で良い成績を残した選手ばかりを集めた、いわば大学日本拳法のエリート集団のようです(彼らが実際にそう言ったわけではなく、いろいろと話をさせて頂いた感じからすると、ですが)。

 ① 特に関西系大学出身者は、大坂・京都が歴史的に三国人が多い土地柄ということもあり「ケンカ慣れ」している(様々な価値観の人との交渉・付き合いに長けている。かつてのヴェネツィア人たちのようです)。

 ② また、日本拳法の歴史が長いため、大きな大会を含む数々の真剣勝負での場数を多く踏んでいるだけあり、試合度胸も良いしメリハリのある戦いができる。

 ③ そして、大学以前、小中高から「日本拳法の英才教育」を地元の道場で受けてきているので、大学から日本拳法を始めた人に比べ「殴り方」に威力がある。

 これは女性にもいえることですが、子供の頃から日本拳法をやっている人は、みな、いかにも「ぶん殴る」という殴り方をする。しかし、大学から始めた人たちは「突き」という形から入るので、どうしても殴り方に迫力(威力)がないのです。

 (私が大学時代、1年生の時から先鋒として試合に出場していたのは、部員数が足りないというよりも、殴り合いに慣れていたからです。3人の4年生以外で、2年生は4人、1年生は7人いましたが、私以外は、みな大学(の日本拳法)で初めて「人を殴る」という行為を知ったのです。)

 

 桁外れのパワーを武器にする自衛隊相手に「場と間合いとタイミング」の妙を使い、そのパワーのスキを突いてガンガン突きや蹴りを入れてくるところはさすがです。


○ 自衛隊の日本拳法とは彼らの仕事の一つであり、警視庁の日本拳法とは趣味(の範疇)にある、と警視庁の日本拳法部員が考えているのかどうかはわかりませんが、警視庁では毎週土曜日に2時間程度の練習をしているだけ、というのが事実であれば、そう見るのが妥当でしょう。

 一方、自衛隊の場合、毎日朝8:45~11:45まできっちり防具練習をするはずが、今年は災害続きで復旧のための出動が続き、なかなか練習ができないといった部隊がほとんどで、その点では、いつでも「仕事として」日本拳法に打ち込めるというわけではないようです。


○ 自衛隊の日本拳法とは、宮本武蔵の時代に存在した多くの武芸者・兵法家と同じで、きっちりとした剣(拳)筋、野球でいえば球筋、囲碁将棋でいう定石がない。

 ないと言って、前拳は前拳、後拳は後拳の打ち方をしている。しかし、おおざっぱな拳筋・軌跡を描いているだけで、彼らの心持ちとしては「いつでもどこでもどんな状況においても」相手を殺傷するだけの、高速で力強い拳が繰り出せる、をモットーにしているように見える。

 私たち大学日本拳法では、拳でも蹴りでも、あくまで自分の体格・体力・運動性能に最適な一点(且つ、一本が取れる攻撃)を求める。4年間、唯一無二の一点を求めて何十万・何百万回もの突き蹴りの練習をし、またそういう一本の取れる防具練習を行い、形の稽古をする。自身の一点を求めるところが、哲学の生まれる由縁でもある。

 ところが、自衛隊とは現実の殺し合いを想定しているので、「ただ一点」だけでは自分の命をカバーすることができない。本当の殺し合いになれば、命が危ないとなれば、「場と間合いとタイミング」など無視して多少無理な飛び込みをしてでも攻撃しなければならない。これは趣味(警視庁)でも哲学(大学日本拳法)でもなく、彼らの本能とでも言うべき行動原理です。そうしなければ、戦場において彼ら自身の命は助からないし、延いては日本という国家を救うことにつなげることはできないのですから。


○ 武蔵がその著書「五輪書」で「構えはなけれど構えはあり」と言い、「五方の構え」「太刀の道」「五つのおもての次第」について述べたのは、当時の多くの武芸者たちが、同じ流派であってさえ、各人各様のバラバラの構え・太刀筋で、いわば自衛隊のような打ち方をしていたことを鑑みてのことであったのでしょう。

 当時の武道・武芸とは殺し合いであり、練習でさえ木刀でやっていたくらい、すべてが実戦中心であり、殺されないためには、或いは敵を殺すには、構えよりも実の攻撃を優先するしかなかった。

 そういう環境では、現代の自衛隊と同じく「いつでも・どこでも・どこからでも」強烈な打ち込み・攻撃ができるようにならなければならない。それは仕方のないことなのですが、武蔵はあえてそこで、構え・太刀の道・おもて(太刀の位相)の重要性を説いたのです。「構えはなくても構えはある」べきだ、と。

 自由自在の発想とそこから生まれる柔軟な攻撃。一見、無軌道・無鉄砲に見えても、そこに物理学・力学的な原理を認識し、法則を見極めなくては、剣の道は科学にならない。誰がやっても、誰に対しても、何度やっても勝つという定常的・恒常的な再現性というものを実現できるのが正しい道というものであり、それこそが二天一流という剣の道なのだ、というのが武蔵の主張であったのです。


○ 今大会、警視庁の日本拳法は社会人Aグループで優勝しました。

 Aグループは2つの自衛隊の部隊が欠場したので、その分の警視庁の試合を見られなかったのは残念ですが、それでも、警視庁の3試合を通じ、小中高大を通じて日本拳法をやってこられた方々の力を知ることができました。

 大学で「一点を追求した」突きや蹴りは抜群の威力・破壊力と洗練された美しいフォルムを持ち、何万回も練習したであろう攻撃のパターンは正確無比で、かの大阪市立登美丘高校ダンス部の踊りを見るようでした。


 自衛隊の場合、形は大学日本拳法ほど美しくない。

 破壊力は桁外れで、防具なしでもらったら死ぬ、というくらいもの凄いパンチでも、(大学)日本拳法の試合では一本にならない。あくまで現実の殺し合いで、敵を確実に殺傷するために鍛えられた「軍隊の日本拳法」なのです。

 

 戦場での戦いであったなら、1回目は必ず自衛隊が勝つ。そして、戦争(殺し合い)ではそれで十分なのです。

 だが、もし2回目があるとしたら、その時はどちらが勝つかわからない。警視庁(大学日本拳法)には「一点を追求する精神」「パターン化するという思想」「形から物事を追求するという習性」があるからです。


 ところが、もし自衛隊の側にも、武蔵が提唱した「構えはなけれど構えはあり」という思想が徹底していれば、何回やっても自衛隊ということになるでしょう。元々肉体的な基本性能が桁外れなんですから、その強固な器に形而上的な道が備われば、「神」となる。


○ 自衛隊の日本拳法

 大学日本拳法はこれを絶対に真似できないし、すべきではない。体格・筋肉の質が違うのだから、同じことをやろうとすれば無理な負荷がかかりケガをしてしまう。

 彼ら自衛隊員の裸を見たわけではないが、おそらく凄い筋肉をしているはずだ。見た目だけではなく、その柔軟性・瞬発力は、とても趣味や哲学で日本拳法をやっている人間などの比ではない。大学生でも警察官でも、自衛隊員と街中でケンカをすれば殺される。「一本」取って喜んでいるようなレベルではないんです。

 実際、去年、警察官が自衛隊上がりの民間人に殺された時、警察の幹部は「防弾チョッキを着用していなかったから」なんて言い訳をしていましたが、そんな問題ではない。柔剣道や日本拳法というルールに従う試合ではなく、また、法律によって縛るなんてことが通用しない状況(現実の殺し合い)では、日本拳法だろうが剣道だろうが、ナイフや拳銃でさえ「軍隊レベル」には無力なのですから。


 ということで、「大学から日本拳法を始めた男性」は、自衛隊との合同練習でインスパイアされることは多々あるでしょうが、彼らとおいそれと防具練習しない方が良いでしょう。レベルというか次元の違う日本拳法なのですから。

 一般の大学生が日本拳法の練習をするなら、大学を卒業したばかりの警視庁のエリート日本拳法部員に稽古をつけてもらうと良いでしょう。

 今回、警視庁の試合を見ていると、20歳台の方たちはパワーもスタミナもあるが、30歳を過ぎるとガクンと体力が落ちるようだ。それに口でアドバイスをするOBなら各大学いくらでもいるんですから、せっかく日本拳法の練習に警視庁に来てもらうなら、実際に防具を着けて相手をしてくれる、若い三段・四段クラスのエリートを招聘すべきでしょう。

 今回の警視庁の出場選手中、決勝戦で素晴らしい蹴りを連発されている方がいらっしゃいました。ああいう方に、例えば立教大学の女性で、蹴りを得意とする方に稽古をつけてもらえば、非常に良い経験となるでしょう。


○ 警視庁日本拳法部の今後

 現時点での「警視庁の日本拳法」とは、大学日本拳法界エリートの寄せ集めという段階だ。あくまでもその出身大学で育まれた各人固有の拳法であって「警視庁」というブランドで括れるものがあるわけではない。今後は、現役の大学日本拳法部員たちに教え・教えられながら、自分たち警視庁の練習方法・指導法を模索していくのでしょう。


 警察官としていくら柔剣道が必須であり、また各警察署に道場があるとしても、今後、警視庁の日本拳法が自衛隊のようなパワー拳法になることはないだろう。

 また、GPSや電話の盗聴といった警察の持つ独自の科学技術を日本拳法に活かすなんてことも、テレビドラマとしては面白いかもしれないが、あまり現実的ではないし、お決まりの警察手帳という水戸黄門の印籠を使ってブランド力を高めるというのも芸がない。


 明治大学とは、バンカラの気風・(和泉校舎という)地の利・強力な組織力といった要素を取り入れ、拳法の強さとは別に自分たち独自のブランドを構築中だし、ミッション系の大学はその自由闊達な校風によって、各校各様に「自分たちの日本拳法」を文化として楽しんでいる。


 日本拳法が、柔剣道と同じように各警察署で必修科目として或いは趣味として広まっていくことを所期し、そのとっかかりとして「警視庁日本拳法倶楽部」という活動が誕生したのだろうか。

 かつて大阪の西成や浪速区では、街を歩いている元気のある男・反抗的な人間を、柔道の稽古をつけてやると言って警察署内の柔道場に連行し、ボロ雑巾のように投げまくっていた。あいりん地区で、車椅子に乗りながらもパトカーの警察官に向かって怒鳴っている人とは、そういう被害者たちなんだそうです。

 日本拳法が、将来、全国の警察に普及するようなことがあっても、そういうことが起こらないように祈るばかりです。

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