1章 芳野と義腕と蹴りたい扉


 芳野花はいつも蹴ってドアを開ける。

 その行儀の悪さを普谷乃ルゥは嫌っていたが、芳野本人を嫌っていたかといえば──これは自分でも意外なのだが──そうでもなかった。

 芳野花という人物は、一年前、突然普谷乃の前に現れた嵐である。無愛想という言葉の化身のような女で、天性の肉体を、デニムのパンツと灰色で大きな上着で覆い隠してしまっている。ざんばらに切られた髪は、鏡も見ずに適当に切ったようないい加減さだった。だがそれらが不思議な調和をもって、芳野花という無愛想な女の魅力になっているのだ。

「おはよう芳野」

 乱雑に散らかった工具や機械部品が形成する迷路を迷うことなく進み、芳野のもとに行く。

「おはよ」

 女性にしてはえらく低い。気だるさを感じさせる声だった。

「腕の調子はどう。いい感じ?」

「良かったら来ない」

 随分素っ気のない物云いだが、機嫌が悪いという訳ではない。これが芳野の平常だった。

「だよねー。どこらへんが悪い?」

「右肩があがらない」

「おっけ。上着を脱いで見せてくれるかな」

 上着を左手だけで器用に脱ぎ捨て、タンクトップ姿になる。肩の付け根から先に肌はなく、腕は鈍く光る灰色をしている。義腕──一般的に流通しているのうな細身のものとは違い、その腕は彼女の体に不釣り合いな程大きい。

「常々疑問なのだけど」

 カバーを外し、中身を確認していく普谷乃に、芳野は独り言のように問いかける。

「なんで肌色にしてくれないの」

 普谷乃はアア、と息を漏らす。

「所長の命令なんだよ。“機械に色を塗るなど邪道だ。ありのままが美しいのだ“

 ──知ってる? あの人、ケータイ買ってきてもさ、まず最初に外装だけ外して塗装剥がしに付けるんだ。筋金入りだよ」

「そんなことだろうと思った」

 女の口からため息が漏れる。諦観がそこにはあった。普谷乃とて、出来ることならクライアントの要望は聞いてあげたい。だがあくまで助手に過ぎない彼に、自由な選択をする権限はないのだ。

 五分と立たずに、普谷乃はチェックを終える。回線の一つが外れていただけだ。つなぎ合わせてカバーをつけ直す。

「おしまい」

「ありがと」

 芳野は腕をぐるぐると回した。その動きに満足すると、コートを羽織り直す。それから、落ち着かない様子であちらこちらを見まわしている。

「その問題の緒方は?」

「いつも昼前に来るから、もうすぐじゃないかな。用事?」

「一度文句を云わないと気が済まない」

 基本あらゆる物事に無頓着な芳野にしては目辛いしい物云いだった。普谷乃はここに来て初めて、今日の芳野がいつもと違う事に気づいたが、余計な一言を付け足せる程の間柄ではないと知っているため、口をつぐんだ。結果、そこで会話が途切れてしまう。普谷乃の視線がさまよう。

 いつも蹴りを入れられる扉は、一部分だけ塗装がはげて木材が露出してしまっている。

 そのキズをぼんやりと眺めていたら、突然寒気がした。徹夜明けだからだろうか。頭がぼんやりする。書類の上に載っていたエアコンのリモコンを取り、暖房をつけた。

「暑い」

 外から歩いてきた芳野は不満そうだった。そのコートを脱いでしまえばいいのに。とは普谷乃は口に出さない。前にぼやいたら思いっきりぶん殴られた記憶があるからだ。芳野の腕は本当に痛い。芯まで詰まった金属バットで思いっきりぶん殴られたような痛みがある。本気でやれば人の骨ぐらい易々と折れるだろう。いや、その為の腕でもあるから当然なのだが──。

 部屋がほのかに暖まってきたころ、扉がまた開かれた。

「遅いっすよー」

 扉が開くか開かないかのうちに、普谷乃は文句をたれた。

「いやぁな、そこの往来ででキャットと見つめあっちゃってよお」

「なんすかその女子中学生みたいな云い訳は。年幾つですか」

 現れたのは中年と老年の境にいる男。だが背筋は定規を刺したかのようにまっすぐで、歩き方もしっかりしている。とてもこの迷宮の責任者には見えず、遅刻常習犯にも見えない。

 所長──緒方光太郎は豪快に笑い飛ばす。

「まあいいではないかね。んで、ルゥちゃん。なにかあったかな」

 時刻は十一時を二十分ほど超過したあたり。重役出勤にもほどがある。緒方の清潔感あふれる格好は普谷乃に好印象を与えるものであったが、ルーズな部分は嫌いだった。

「『ちゃん』をつけんでください。俺は男ですよ。──芳野が来ましたんで、メンテしときました」

 それで取引先に勘違いされたことは、両手を使ってもたりないくらいだった。

 緒方が壁に腰かけていた芳野を見つける。

「本当だ。よお芳野。扉の傷が増えてると思ったらやはりお前か」

「しらん」

 相変わらず無愛想な反応に、普谷乃は苦笑いだ。

「キズ、増えてました?」

 そして代わり尋ねた。

「左端に一か所。今回は少し凹んでたぞ──今日は何月何日だっけか」

 唐突な話題転換だが、いつものことだ。壁にぶら下がったカレンダーを見る。十一月十五日(金)だと答える。

「やっぱりか。そりゃあ荒れるよなあ」

「天気ですか? 今日は晴天でしょう」

「そうじゃない。命日なのだよ」

 誰のだ? という疑問が顔に出たのだろう。緒方は小さくうなずき、芳野を親指で指した。

「こいつの仕事仲間のだよ。知ってるだろ」

 云われて、普谷乃は記憶を呼び覚ます。死体処理の連中でさえ、仕事を嫌がったというほどの残酷な情景を。

 ──確か、報復行動だったか。

 芳野のいた事務所は、まだ新しいと呼べるもので、活動期間は当時一年にも満たなかった。だからまだ知らなかったのだ。どこに手を出してはいけないか、どこまでが安全で、どこまでが死線かを。

 だが愚かだったと云い切れるものでもない。その仕事はさんざんにたらい回しにされて、芳野の事務所に回ってきたのだ。依頼主のサラリーマンは、ここで断られたらそのまま窓から飛び出しそうな勢いだった。そこまで頼み込まれて断れるのは、血も涙もない連中だけだ。

 普通の神経を持っている事務所であった。まがりなりにも正義感というものもあったのだろう。真っ当な神経を持つことが、致命傷に繋がる仕事であるとは気づいていなかった。

 依頼を受けて、いつもの要領で芳野に連絡した。芳野はいつも通り、淡々と仕事をこなした。

 それだけである。

 だがそれ、いつも通りというのがいけなかった。もっと慎重になるべきだった。いつも通り、芳野は近くにいた標的の仲間さえ皆殺しにした。それが依頼人の願いだったからだ。

 それが相手組織の逆麟に触れてしまった。標的はその時、その組織の後継とのドラッグパーティの最中であった。

 ──結果、依頼人は体をバラバラにされてコンクリートに詰められ、事務所の人間は一人の例外もなく、鈍器と刃物でさんざんに嬲られて、いたぶられて、地獄絵図の素材になった。最後に残った実行犯である芳野は、生きたまま両腕を切断された。薬物投与を繰り返されて、廃人寸前にまで追い込まれた。

 そんな過去の痛ましい事件を思い出した所で、普谷乃が抱いた感想は「僕なら飛び下りている」ということだけだった。

 確かに強烈な事件であるが、この業界ではそんな話は事欠かない。

 当人の芳野は、表向き全然平気そうなのが、普谷乃にはむしろ気になった。

「ところで緒方。この腕肌色にならないの」

 芳野からの要望は珍しいものだったが、それを大げさな反応で緒方ははねつけた。

「ばっきゃろう! 機械の腕ってわかったほうが、なんかこう、くるもんがあるだろ!」

 ──それはあんたの性癖だ。欠損フェチのおっさんめ。

 思っても普谷乃は云わない。昔そうぼやいたら、思いっきりぶん殴られたからだ。尾形の腕は太い。本気を出せば、顎の骨ぐらいは砕いてきそうだった。

「それはアンタの性癖だろう。欠損好きのジジィが」

 芳野の言葉であり、己の言葉ではないと気づくのに数拍の時を要した。そしてのその間は、普谷乃にとって唯一であった、この嵐を止めるタイミングを永久に失わせた。

 物の投げ合いから発展した喧嘩は、次第に取っ組み合いとなり、普谷乃の頭に大きなタンコブを二つ作るまで止まる事はなかった。

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