舞うが如く第9話-2「雨後」
………
体が動かない。シキョウは薄暗闇の中で一人、立ち尽くしていた。
手足はピクリとも動かない。なのに、視界だけは明瞭であった。
やがて、正面に光が現れた。光はたちまちの内に目の前いっぱいに広がり、朧げな景色となった。
これは夢だ。と、シキョウは断じた。
目を凝らして景色を見ていると、ある事に気付いた。
これは荒唐無稽な幻ではない。
過去の光景だ。
…………
汗臭い練兵場。雑草だらけの狭い中庭。陽に焼けた廊下。書類と本で埋め尽くされた部屋。
目で見ているだけなのに、鼻は本のカビの臭いを嗅ぎとり、肌は西日が放つ鋭い陽光に痛みを訴えている。耳に届く音はどれもボンヤリとしていて、不正確だった。
百鬼隊。シキョウがかつて、マガツ・ヨツミと名乗っていた頃に身を寄せていた人斬り集団。
正確には大公軍の遊撃部隊なのだが、戦場や街中で、さんざん人を切り捨てていたのだから、大した違いはない。
さて、ここは百鬼隊の屯所だろう。
そして、自分が立っているのは、あてがわれていた執務室だ。
シキョウは辛うじて動かせる目で、部屋を見回す。
(それにしても、夢にしては、よく作り込まれている。いや、記憶していたのか)
そのように考えながら、シキョウは床に崩れ落ちた書類の中から、小さな手鏡を拾い上げた。いつの間にか、体のこわばりが消えて、自由に動かせるようになっていた。
丸い別世界に写る男の青白い顔は、まるで死人であった。
(どうした。白粉でも塗ったのか、マガツ?)
十ばかりの皮肉が思い浮かんだ所で、これが夢だと思い出したシキョウは、どうすれば夢が覚めるのだろうと思案する。
(確かオレは、ミズチを助けて……それから……)
そこに、執務室の扉が乱暴に開かれた。
「マガツ隊長!」
歳若い隊士が顔を真っ赤にして怒鳴りこんできた。異国の軍服を模した、黒い隊服をきっちり着こなし、髪油までつけて、身なりを上品に整えている。
しかし、どんなに飾っても生来の気性は隠せなかったようだ。大きな瞳には、獣のようなギラついた光が宿っていた。
(嗚呼、お前は……)
シキョウは相対する人物を見て、ぼうぜんとした。
「早まるな!」
「どうか堪えてくれ」
更に複数名の隊士達が騒々しくなだれ込んで来た。マガツは彼らを目で制して黙らせる。それから、最初に怒鳴り込んできた隊士をまっすぐ見据える。
(待て)と、シキョウは心の内で叫ぶ。
しかし、口が勝手に動く。
過去をそのまま再現している。それに気づいた時には遅かった。マガツは抑揚のない声を発していた。
「ネスト。自室に戻れ」
ヨロイド・ネスト。隊規を司る督戦隊の伍長。そして、マガツの部下だ。
「一体、どういう事なのですか!?」
百鬼隊士の規律を正すマガツの腹心は、怒りの形相で上官を問いただした。
「総隊長の処刑を、マガツ隊長の手で執り行うなど、納得がいきません!」
百鬼隊総隊長のゼクは、着服した軍資金をもとに贈賄や不正を繰り返していた……という告発を受け、督戦隊や大公軍の将校らが、捜査を進めていた。
疑惑が真実であると判明するのに、さほど時間は掛からなかった。ゼクはたちまち捕らえられ、たった一度の裁判を経て、処刑が決まった。
そして、総隊長の処刑は百鬼隊が独自に設けた軍規に則り、督戦隊の長、すなわち「首斬りのマガツ」が執行を務める事となったのである。
……さて、伍長のネストは、偶々別の任務で国外に出ており、つい今しがた帰国したばかりだった。帰ってくるなり、突然、総隊長の処刑を伝えられた彼が怒り狂うのも当然だろう。
しかし……。
マガツは机の上から、分厚い和綴じ本を取り上げ、ネストの鼻先に突きつけた。この本には、百鬼隊に属する全隊士が守らなければならぬ規律、および罰則等々が綴られている。いわば、「百鬼隊の法律書」であった。
「総隊長は軍の金を持ち出し、己の懐に入れた。局中法令第十条違反。たとえ総隊長であっても、規律を乱した以上、罰を受ける。ただ、それだけの事」
感情のない、ひたすら冷淡な調子で、マガツは説明をした。
しかし、ネストは食い下がる。
「信じられません。あの方が、そのような悪事に手を染めるなど。それは、あなたがよくご存知の筈だ」
マガツは和綴じ本を下ろし、ネストに背を向けた。
ネストは暗い影に覆われたマガツの背中に、ひたすら語り続ける。
「これまでにも、大公の側近共は、我々を貶めるため、あらぬ疑いを掛けてきました。きっと、今回もその一つです。どうか私に調べ直させてください。総隊長の無実を証明してみせます。だからどうか、何卒……何とぞ!」
「……確たる証拠は揃っている。ゼクの罪は覆らない」
シキョウは背を向けたまま、口を動かす。
「総隊長が死ねば百鬼隊はお終いだ。たちまち潰される。あなたは、百鬼隊すら殺してしまうつもりなのか!」
ネストは涙ながらに問う。するとマガツは徐に振り返り、ネストの胸ぐらを掴んだ。
「親兄弟に蔑まれようとも、士道に背いた者は裁く。たとえ百鬼隊の明日を奪う事になっても、目の前の悪に目を瞑ってはならない。それがオレ達の務めだ」
マガツは腕を振り、ネストを強引に突き放す。床に尻餅をついたネストは、ボロボロと涙をこぼしながら、マガツを見上げた。
彼が何かを叫んだ。しかし、急に高まり出した耳鳴りが、声をかき消してしまう。
(ネスト。あの時、お前は)
意識を向ければ向ける程、視界が段々と白んでいく。
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