舞うが如く第9話-3「雨後」
シキョウは、己の瞼がすっかり閉じきっている事に気付いた。おまけに体が猛烈にだるい。目を開ける事さえ、億劫であった。
「ちくしょう」
毒づきながら重い瞼を開ける。視界に飛び込んだのは、陽に焼けた黄色い本。それも、絶妙に下手くそな春画の一頁であった。
首をひねって反対側を見ると、欠けた茶碗やら、うず高く積まれた刀剣の部品などが床を埋め尽くしている。
「……これじゃ、オレもゴミと変わらん」
シキョウは一人ごとのように呟く。彼は、有象無造のガラクタだらけの床に寝ていた。
貧乏長屋より狭い部屋の筈なのに、よくもここまで入るものだと、シキョウはズキズキ痛む頭で、そう考えた。
枕がわりに使っていた古着の塊から頭を離して、のそのそ体を起こす。
春の朝はとにかく寒い。掛け布団代わりのボロ布は気休めにもならなかった。おまけに雨が降っていたのだろう、空気が湿っていた。
あまりの寒さに体を震わせていると、不意に、ヒビだらけの戸が開かれた。
「よお。目ェ覚めたかい」
作務衣姿の老人が中に入ってきた。
皺だらけの顔、枯れ木の枝と例えられても仕方ない痩せ具合はみすぼらしい限りだが、鋭い三角形の目は歳不相応に若々しい。
若い頃から燃え盛っていた情熱の炎が消えず、未だに篝火めいて残っているようであった。
老人の名はゲンオウ。かつては当代一とも謳われた刀鍛冶だった。今は引退し、地蔵峠の山小屋で、隠遁生活を送っている。シキョウの剛刀、
……それはさておき。
「火はどうした、ジジイ。俺たちを凍死させる気か」
寝癖のついた髪を掻きながら、シキョウは問う。
「囲炉裏はどっかに埋もれちまってる。いくら探しても見つからねぇ。今さっき雨は止んだし、お天道様もじきに顔だして、暖かくなるさ」
カラカラ笑いながら、老人は作業台に腰を下ろした。それからヨレヨレの紙巻タバコを拾い上げ、口にくわえた。
「全く、いつまで経っても賑やかな男だな、テメエ。夜中に血だらけの女を担いだまま怒鳴り込んできやがって。おまけに、追われているから匿えだって?」
シキョウは、ふっとため息をつく。
「事情は寝る前に話した通り。知り合いを殺されて、犯人を追っていた。見つけ出した犯人はトンデモない悪党共で、逆に殺されかけた。ついでに言うと、見知った顔の男にも会ってしまった」
シキョウは夢で見た男の顔を思い起こす。
続けて、マシュマロ子爵の放った追手の顔を重ねる。
しばらく見ない間に、あの男はけものになった。
「百鬼隊士で、オレの部下だったヤツだ。ネスト。督戦隊の伍長」
二つの顔は、寸分の違いなく合致した。
「へえ」ゲンオウは相槌を打ちながら、タバコの煙を吐く。
「驚いたし、危なかった。本気で死ぬかと思った。できれば、二度と戦いたくない」
「嘘つけ。ガラにもねえ弱音を吐きやがって。内心、喜んでるんじゃあないのか、テメエよお」
「どうしてそう思う?」
「口数が増えてる」
ゲンオウの指摘に、シキョウは黙り込んだ。
「……ところで、テメエの連れてきた娘ッ子。あいつ、まだ寝てるのか?」
不意に老人は、部屋の隅に横たわる竜人の女を、顎でしゃくった。
ノエ・ミズチ。昨晩彼女は、マシュマロ子爵の一派による反乱計画を知り、命の危険に晒された。そればかりか、目の前で剣の師範を殺され、激しく打ちのめされてしまった。
本来なら、立ち直るまで休息の時間を与えるべきなのかもしれない。しかし、状況がそれを許さない。
「ミズチさん、起きなさい」
シキョウは敢えて冷たい態度を装い、呼びかけた。
「いやだ」ミズチは低い声でボソリと答える。
「朝ごはん」と、シキョウは言う。
「食べたくない」ミズチ、即答。
シキョウは膝立ちになって、ミズチに近づく。
両手に巻かれた包帯は、乾いた血で変色しきっている。
手当をしたのはシキョウだ。女剣士の手は皮が削げて、肉がむき出しになっていた。おそらく、脱出中にできたものだろうと、シキョウは見当をつけた。
布団からはみ出た竜の尾も、よく目を凝らすと色艶が悪い。絶不調のようだ。
しかし……。
「力ずくで起こしますよ。油を売っている時間は無いんですから」
シキョウは固い表情で尋ねた。
「やってみろ」
ミズチはそれだけ言うと、カビ臭い掛け布の中に潜り込んでしまった。
「わかりました」
シキョウが布団を剥ごうと手を掛けた、その時だった。
また戸が開いた。戸口には、分厚い体の大男が立っていた。浅葱色の着流しに黒帯を締め、腰には大小二本の刀を挿している。一目で剣客と分かる装いであった。
「ご免。刀鍛冶ゲンオウの家はここか?」
と、客人は野太い声で尋ねた。
突然の訪問者にギョッとするゲンオウ。咥えていたタバコが、埃だらけの土間に落ちた。
無理もない、とシキョウは客の顔を見て思った。
巨躯の上に載っているのは、髷を結った大きくて扁平な頭。そこに、つぶらな眼と、二本の長い髭、広い口が配置されている。
もはや、魚に似ているどころではない。ナマズ顔の魚人間であった。
シキョウは座したまま、客人に頭を下げた。
「ご無沙汰しています、ナマズ公……いいえ、ルル家・ダ
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