第18話
釉才の高座が続いていて、場面は後半に入っている。若旦那の徳さんが船頭になって船を操っているが、竿を流してしまい、仕方なく櫓で漕ぐのだが、慣れないことなので上手く操れない。岸壁に船が着いてしまい、客のこうもり傘で岸を突いて貰い、何とか船を出せるが客が傘を離してしまうと
「諦めてください。もうあそこには戻れません」
と言う始末。
「見えてるんだけどな」
と客が行っても「駄目」の一点張り。
釉才は徳さんの駄目っぷりを鮮やかに演じて行く。また、不幸にも徳さんの船頭に居合わせてしまった客の不幸も鮮やかに対比させて行く。
客席の喬一郎は、実は釉才の高座を見に来たのだった。それというのも、彼が前座の頃、既に釉才は若手真打として売り出しており、その人気が上昇していく頃だったのだ。前座の喬一郎からすれば通常なら、眩しくて、まともに口も利いてくれる存在では無いのだが、釉才は寄席の仕来り等を丁寧に教えてくれたのだった。また違う一門でありながら稽古も良く付けてくれた。だから釉才が事件で捕まった時は心を痛めたのだった。そんな関係から今日の高座は是非とも自分の目で見て置きたかった。
「いい出来だ。あの頃に戻っている感じだ。やっぱりいいなぁ〜」
思わず呟いていた。そうしたら後ろから肩を叩かれた。振り向くと神山だった。
「神山さん!」
思わず小さく叫んでしまった。
「仙蔵師は無粋だから『放おっておけ』って言ったのですが、まさかそうも行きませんでしょう。そこで私が出て来たのです」
神山は自分の行動を説明した
「後で楽屋に顔を出してくださいよ」
「判りました。終わったら挨拶はしようと思っていましたから」
「それじゃ楽しみにしていますね」
そう言って神山は帰って行った。高座では釉才の熱演が続いていた。
「モウ駄目です!」
「駄目って、そこまで見えてるんだけどなぁ」
「駄目と言ったら駄目なんです」
「どうしろって言うんだ」
「この辺りたりは浅いですから、ここで降りて歩いて桟橋まで行ってくださいな」
「おい酷えじゃねえか」
「だから、あたしは船は嫌だと言ったんですよ」
客の片方がそう言ってむくれると
「悪い、今回は私が悪い!」
文楽を始め、他の噺家はここで地の文言は入れないが釉才は
「本当に悪いのは徳さんですけどね」
と文言を入れた。どっと客が笑う。噺の途中に地を入れると、客が噺の世界から現実に引き戻されるので、それを嫌う噺家も多い。だが自分の技量に自信がある噺家は得てしてやるのだ。かっての立川談志や春風亭小朝などが良い例である。
「お〜い船頭。上がったぞ!」
「お上がりになりましたか! おめでとうございます。そこで頼みがあるんですがな」
「頼み? なんだい?」
「へえ、船頭一人雇ってください」
一斉に拍手が湧き起こる。中には立ち上がっている者もいた。それほどの出来だった。
高座を退く釉才と次のトリの出番の仙蔵と高座の袖ですれ違う
「お先に勉強させて戴きました」
釉才がそう言って頭を下げると仙蔵は
「戻ったな。いい出来だった」
一言、それだけを口にした。釉才にはそれで充分だった。高座には「中の舞」が流れている。満員の拍手の中、仙蔵は高座の座布団に座り頭を下げた
「え〜やっとトリでございます。もう少しの辛抱で皆さんは開放されますので、頑張って戴きたいと願っております」
ドッと笑いが起きる。
「え〜夏ですなぁ〜。夏ってのはこんなに暑かったですかねえ? なんか昔より暑くなってる気もしますがねえ。その昔ですが、我々庶民と違って上のクラスの方々は避暑に出かけたそうですな。軽井沢とか箱根とかね」
「鰻の幇間」に入るマクラを語り始める。この噺は幇間の一八が夏の暑い盛りに、置屋に挨拶に出向くが、生憎何処の置屋の女将も避暑に出ていて留守。一八は羊羹を手土産に挨拶に出向き、何がしかのお返しを期待していたのだが、目的が外れてしまう。このままだと昼飯も自前で食べなくてはならず、そんな事は幇間のプイライドとして許されないと考えていた。弱っていると、そこに見たことのある男が通りかかる。良く思い出せないが、一八は焦っていたこともあり声をかけようとする。
「旦那!しぱらくぶりです、その節は……」
「いよう師匠!」
と男も乗りがよい。
男はこの先に旨い鰻屋があるんだ。そこで昼飯でも、というので一八は乗ってしまう。
客席の喬一郎は仙蔵の高座を見ながら
「やはり凄いな。一八の焦りがよく出ている。置屋を何軒も回って成果がなく焦っている感じが伝わって来る」
そう思っていた。
「やっぱり古典はいいなぁ〜」
圓城や乾が聴いたら目を剥きそうな事を呟いた。
連れて行かれた鰻屋の二階座敷で蒲焼を肴に酒を飲みながら、一八は男がどこの誰だったか思い出そうとして、うなぎ屋を持ち上げる見え透いたお世辞の合間に「ぜひそのうちにお宅へ」
などと探りを入れるが、男はのらくらとはぐらかす。
客のことを忘れることは無礼になるため、一八もはっきり聞くことが出来ない。重を食べおわってから、男は便所へ行くと言って席を立ったきり戻って来ない。
気になった一八が便所をのぞくと誰もいない。一八は
「あっしに気をつかわせないように、先に勘定を済ませて帰ったのか、なんて粋な旦那だ」
とひとり合点する。
座敷に戻って残ったうなぎを平らげていると、店員が
「お勘定をお願いします」
と二階にやって来る。
「勘定済んでないの? 何かの間違いだろう」
と驚く一八に、店員は
「お連れさんが、自分は羽織を着た旦那のお供だから、勘定は旦那からもらってと言って、先にお帰りになりました」
と説明。騙されて、飲み食いの支払いを押しつけられたことに気がついた一八は居直り、前に男にしゃべったお世辞と裏腹に、店が汚い、蒲焼に添えられた漬物がまずいなど、鬱憤を店員に言いたい放題。
ここで仙蔵は店員に諭すように話しをする。
仕方なく、泣く泣く金を支払うことにする。しかし勘定が二人前にしては高額なので一八がただすと、店員は
「お連れさんがお土産を包んで持って帰りました」
と言う。あきれ返るが、あきらめて払った一八が帰ろうとすると、今度は上等な自分の下駄がない。店員に聞くと、
「へい、あれでしたら、お連れさんが履いていかれました」
誰が見ても見事な出来だった。高座の袖にいた遊蔵でさえも
「今日は凄い」
そう感心せざるを得なかったほどだった。
「ありがとうございます。ありがとうございます!」
お客が立ち上がって拍手をしてる中、座布団を外して仙蔵が頭を下げている中を緞帳が降りて行く。それを見ながら喬一郎は楽屋に向かった。
「お疲れさまでした!」
楽屋に残っていた、柳星、遊蔵、柳生、釉才が出迎える。勿論神山もそこに居た。
「それしても気合が入っていましたね」
柳生が今日の出来を言うと仙蔵も
「いやさ、釉才がいい出来だったから、こりゃ負けられないな。と思っただけさ」
そう言って今日が特別な出来だと認めた。そこに喬一郎が顔を出した。来ると思っていた神山と仙蔵は涼し気な表情だが、事情を良く知らない他の者は一様に驚いた。
「喬一郎アニさん」
遊蔵が声を掛けると喬一郎は
「少し話しがあるのですが……」
そう言って真剣な表情をした。
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