第17話
仲入りの休憩中に神山は、客席に喬一郎が来ているのを見つけた。マスクをして野球帽をかぶっているが、それが返って目立っていた。
「あいつ何やってるんだ」
仙蔵が不思議そうな顔をしている。
「敵情視察か?」
「そうですかね。ならばもっと堂々としてると思うのですが」
神山の言葉に仙蔵は
「そうだな隠れる必要なんか無いはずだしな。それにアイツ仕事はどうしたんだ。まさか抜いたのか?」
そう言って心配をする。神山は「東京よみうり版」を出して喬一郎のスケジュールを確認すると
「今日は寄席も何も無いですね」
「へえ〜そうかい偶然か……」
「声かけてみます?」
「いやよしておこう。野暮だ」
二人はそのままにしておく事にした。
仲入りの後は柳生の「酢豆腐」となる。休憩が終わる旨のブザーが鳴ると緞帳が上がり柳生の出囃子の「外記猿」が鳴り出した。ざわついていた客席に緊張が走るのが判る。柳生が登場すると、その緊張が拍手に変わる。柳生は高座の座布団に座りお辞儀をする。
「え〜後半戦の開始でございます。今回は少し趣向を変えまして、私が後半戦のトップでございます。よろしくお願いします。昔は夏の暑い盛は仕事なんぞしなくて町内のたまり場に若い者が集まっていたものだそうでして、そんな時分のお話しでございます」
柳生は「酢豆腐」の世界観から説明していく。行動の基準が、今なら信じられない基準でもあった時代の噺だからだ。
頭数はそろったが、酒は兎も角、酒の肴が無い。一同考えた挙句糠漬けの底から古くなった漬物を取り出して「かくやのこうこ」を作ろうと決めるが、肝心のそれをやる奴がいない。そこで一同は色々と考える。そこに現れたのが町内一の色男と自負する半公だった。
「おっ、半公じゃねえか。そう言えばアイツみいちゃんに惚れてるんだよな。よし見てろアイツから何かふんだくってやるから。誰も横から口を挟むなよ」
そう言って半公に取り掛かります。
「江戸っ子で、人の嫌がることを進んでやるし、みいちゃんも立て引きが強い所に惹かれたんだな」
「俺は神田っ子だ。人に頼まれたことはイヤだとは言ったことはねえんだ。みい坊もやっと俺の良さが判ったみたいだな」
「そこで、頼むんだが、糠味噌出してくれないか」
「う、う~、さようなら」
「半ちゃん、あんたは立て引きが強い」
「話がうますぎた。香香は出せないが、それを買う分銭を出すよ。二貫でどうだ」
結局、みいちゃんが半公に気があるというニセの情報を与えておだてて幾ばくかのお金をせしめる事に成功します。するとそれを知った半公も
「じゃあ俺もご馳走になるかな」
と用事があるのに仲間に加わろうとします。
次に与太郎が夏の盛りに腐らせてしまった豆腐を持って来ます。捨ててしまえと一度は言いますが、思い直して、それを気障な伊勢屋の若旦那に食べさせる事を思いつきます。若旦那が通りかかると
「素通りしてはいけなませんよ若旦那」
と部屋に上げます。そして町内の女湯では、バカな人気だとか、
「眼が赤いとこ見ると、昨夜は『夏の夜は短いね』なんてモテたんでしょう」
「その通りで、初会ぼでベタぼで寝かしてくれない」
などと惚気が終わると本題に入ります。
「貴方は御通家だ。昨今はどんな物を召し上がりますか」
「割烹物は食べ飽きてしまったから、人の食べない物が食べたいねぇ」
「ここに到来物の珍味なんだが、何だかわからねえ。若旦那ならご存知でしょう」
と見せると、若旦那は知らないともいえないから器を顔の前にすると、眼がピリピリとし、ツーンと酸っぱい匂いがする。
「これは食べ物ですか」
「モチリンです。拙も一回やったことが有りますが、これは皆さんの前では食べられない」
「そんなこと言わないで、他で恥をかくといけないから、どうぞ食べ方を見せてください。皆も頼め。箸じゃなくて匙で如何です」
若旦那の周りを囲んで食べ方を拝見。間違った能書きはいっぱい出てくるが、顔の前にはなかなか器が上がらない。目をつむって、息を殺して一口、急いで口に入れたがたまらず扇子で扇ぎだした。目を白黒させながら吐き出しそうになるのを無理に飲み込んで
「いや~、オツだね」
「いや〜若旦那食べたね。さすがお見事! ところで、これは何という食べ物ですか」
「酢豆腐でしょう」
「酢豆腐とは粋だね。若旦那たんとお食べなさい」
「いや、酢豆腐は一口に限りやす」
下げが決まってお客が堪らずに拍手をする。終わったからする拍手ではなく、拍手せずにはおられない、という感じなのだ。
「上手いとは思っていたが、これほどとは」
仙蔵が驚くと神山は
「彼は師匠の次に天下を取りますよ」
そう言ってニヤッと笑った。仙蔵も
「そうかも知れねえな。俺だってこれほどの出来はそうはねえからな」
そう呟いたのが神山の耳に届いた。
「お疲れさまです」
柳生が楽屋に帰って来ると一同が声をかける。
「いい出来だったな」
仙蔵がそう言うと柳生は
「ありがとうございます。今日はお客も良かったですからね」
そう言って時分の手柄にはしなかった。高座では釉才の出囃子「千鳥」が鳴り出した。これは元は琴の曲だが、出囃子にする為にオリジナルよりアップテンポにしてある。当時人気抜群だった釉才の為に琴の曲の作曲者が編曲してくれたのだった。出囃子を聴きながら釉才は、彼の為にも今日はしっかりやらないとならない、と思っていた。
タイミングを取りながら高座に出ていく、客席からは少し淀んだような、それでいて暑い熱気が起きるのを感じていた。
「え〜膝は、わたくしめでございます。どうぞよろしくお願いします。今あまり聞かなくなったのが若旦那という人類ですな。ほとんど聞かない。大抵は若手実業家などと紹介されますな。昔なら若旦那の一言で済ませられましたね。その若旦那、特徴はというと……」
釉才は自分流のマクラから噺に入って行く。
若旦那の徳三郎は遊びが過ぎて勘当になる。仕方ないので出入りの船宿に厄介になるが
「あたしはお前のところで船頭になるって決めたんだよ」
そう言って船頭になることを告げる
「駄目ですよ若旦那。ああたなんか船頭になれる訳はありませんよ。夏は暑いし、冬は寒い、我慢出来ますか?」
「駄目なら隣の船宿でなるからいいよ」
「それはいけませんよ。そんな事されたら出入りを止められてしまいます。仕方ありません。いいでしょう」
こうして船頭になったが、教える方もいい加減。教わる方もいい加減だから基礎が出来ていない。そうこうしているうちに
「お江戸は四万六千日を迎えます」
かって桂文楽の一言で季節が一変した言葉でもある。釉才はそれに、『お江戸』と、『迎えます』。という言葉を加えたのだった。
「いい出来だな」
仙蔵が高座の袖でポツリと呟いた。
「本来ならこのぐらいは出来るんだ」
そう言って楽屋に戻って行った。その後姿は今日の高座に掛ける決意が漲っていた。
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