第9話

 「お久しぶりです。神山さん、佐伯さん」

 編集部の入り口に男が立っていた。

「師匠! どうしてここへ?」

 佐伯がそう叫ぶように驚いて立ち上がると、師匠と呼ばれた男は

「もう師匠ではありませんよ。噺家は辞めましたから」

 その男はそう言って編集部の中に体を入れて来た

「ま、立ってるのも何なので」

 佐伯が椅子を勧める。

「ありがとうございます!」

 そう言って座った。グレーのカーデガンにグリーンのタートルネック、下は黒いスラックスにスニーカーだった。頭は少し白いものが混じっていたが、きちんと整えられていた

「もう何年になります?」

 神山が男に尋ねる

「昨年、執行猶予が明けて保護観察処分も解けました」

「刑は何年だったっけ」

「懲役3年、執行猶予5年でした。釈放されてからは病院の薬物外来に通っていました」

「あの時は本当に驚いたよ。人気落語家だった三猿亭釉才師が覚せい剤所持で逮捕されたと聴いた時は」

 佐伯の言葉にかって三猿亭釉才と名乗っていた男は

「あの頃、仕事が立て込んでいて、余裕が無くなっていたんです。それである男から声を掛けられたんです『疲れに効く栄養剤がある』って」

 そう言って遠くを見た。神山が買って知ったる何とかで、給湯室からお茶を入れて持って来た

「すいません。お気を使わせてしまって」

「それで今は大丈夫なの?」

 神山の言葉に

「もう大丈夫だとは思います。でもこれは完治はありませんので一生戦いです」

 そう言って出されたお茶を口にした

「今はお茶が旨くて仕方ありません」

「そうか、それは何よりだ。ところで今日の要件は」

 佐伯の質問に

「先日の落語会、素晴らしかったですね」

 そう言ってこの前の会のことを口にした

「見に来ていたのかい?」

「ええ」

 釉才の返事に神山は

「楽屋に来てくれれば良かったのに」

 そう言うと

「とんでもない。私なんか顔を出せる場所じゃありませんよ。事件を起こして協会や師匠に迷惑をかけたのですから」

「でも禊は済んだのじゃないか。当時人気実力ともトップだったあんたは事件で何もかも失ってしまった。社会的制裁も受けた」

「そんなこと言って下さるのはお二人だけですよ」

「もう6年も前のことだろう」

 佐伯がそう言うと神山も

「どうだい。今度高座に出てみては」

 本気とも冗談ともつかぬ事を口にした」

 すると釉才は

「まさか……噺家は既に廃業しています。拘置所から協会に廃業届を出しました」

 そう言って否定した。だがそれを聞いた二人は顔を見合わせ佐伯が

「あんた、ウチの演芸年鑑見ていないな」

 そう言って編集部の本棚から今年の演芸年鑑を出して来た。

「東京の噺家ならこの前入った前座からもう死にそうな年寄りまで全員登録してある」

 そう言って年鑑を開いて見せた。そこには噺家協会の中堅の位置に三猿亭釉才の名と写真が載ってあった。写真はかなり前のものだが

「これは……。廃業したはずじゃ」

 釉才の言葉に神山が

「協会の事務員もアンタの師匠も廃業届を受理しなかったんだよ」

「と言うことは……」

「そうアンタは今もって噺家、三猿亭釉才なんだ」

 そう言って真実を告げた

「裁判が終わってから師匠の所には顔を出していませんでした。帰りに寄って詫びを入れて来ます」

「で、出て見る気は無いかい?」

「6年ぶりですよ」

 戸惑う釉才に神山は

「稽古すればいいじゃない。アンタの芸は素晴らしかった。もう一度聴きたいという客は多いと思うけどな。兎に角考えておいて欲しいな」

 そう釉才に告げた。その後連作先を交換して釉才は帰って行った。

「あれ、そういえばアイツ用は何だったんだ?」

 佐伯の言葉に二人は顔を見合わせて笑った。


 よみうり版からの帰りに末広亭に顔を出した。この芝居では遊蔵が夜席のトリを取っていた。楽屋に顔を出すと既に遊蔵は来ていた。

「神山さん。どうしたのですか? 取材ですか」

 驚く遊蔵。確かに特別なことが無い限り評論家が寄席に顔を出すことは少ない

「いやさ」

 そう言って遊蔵を楽屋の外の通路に呼び出して先程のことを伝えた

「釉才師匠ですか! 正直もう高座には立たないとは思っていたのですが、出来るならまた見てみたいですね。二つ目の頃、高座の袖から夢中で見ていましたよ」

「まあ返事は未だなんだけどね。でもわざわざ編集部に顔を出したと言う事は、執行猶予が明けて一年。そろそろ落語の虫が疼いて来たのだと思ったんだ。

「確かにそれはあるかも知れませんね。一度でも高座で噺をしてウケたらもう忘れられませんよ。かぜとまんだらに封をして二度と高座には出ないと誓っても歳月が経つと考えも変わるものです」

 遊蔵はそう言って三猿亭釉才が復活することが濃厚だと語ったのだった。

 実は神山は例の「古典落語を聴く会」に三猿亭釉才が出られないかと考えていた。かっては一斉を風靡した噺家である。ブランクはあるが稽古次第で出られるのでは無いかと思っていた。そうすれば新作派に充分対抗出来る布陣となる。でも今日の段階ではそこまでは口に出来ない。60代の仙蔵、50代の釉才、40代の柳生、そして30代の遊蔵、20代の柳星と揃うのだ。

「面白くなって来た……後は根回しが肝心だな」

 この時神山は他のメンバーにも伝えておいた方が良いと考えたのだった。

 

 一方、編集部から出た三猿亭釉才は真っ直ぐに自分の師匠、三猿亭釉志のところへ向かった。手土産を買って東京の下町にある師匠の家を尋ねた。雷が飛んでくると思っていた釉才だったが師匠は思いの外優しかった。

「良く来てくれたな。この日を待っていたんだ」

「ありがとうございます! 本当に申し訳ありませんでした」

「間違いは誰にでもある。問題は、それをきちんと反省して次に繋げることが重要なのだ」

 暖かい言葉であった。釉才は心の底から師匠に感謝した。

「お前はかぜとまんだらに封印をして廃業したつもりだろうが、俺が許さなかった。どうだ、もう一度高座に立ってみたくは無いか? お前がその気なら協会にでも何処にでも口を効いてやる」

「ありがとうございます! 今日も神山さんにも言われました」

 釉才の言葉に釉志は

「そうか、神山さんがそう言ってくれたか、有り難いじゃないか。前向きに考えるんだろう?」

「考えても良いでしょうか? 自分にその資格があるでしょうか?」

 釉才はそう言って真剣な表情をした。それを見て釉志は

「お前のその目が本気だろう。それが答えだ」

 そう返事をした

「ありがとうございます!」

 畳の上に正座して両手を着いて師匠の釉志に感謝したのだった。

 数日後、神山の元に釉才から「お願いします」との連絡が入った。

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