第2話
高梨との話から数日後の晦日、神山は上野鈴本演芸場に居た。目的はこの日余一会で行われる小金亭仙蔵独演会の取材とゲストで出演する麗々亭柳生に会う為だった。余一会とは大の月の三十一日に寄席で開かれる会の名称で、十日間間隔で興行を行ってる寄席では三十一日は余ってしまうからである。
柳生は噺家芸術協会の所属だから本来は鈴本には出られないのだが、この独演会の主催者の小金亭仙蔵は落語界を代表する噺家で、しかも噺家協会の幹部でもある。その大物が鈴本の席亭と噺家芸術協会に掛け合ったのだ。
「どうしても自分の独演会に柳生を出演させたいのです」
これについては、さすがの芸協の幹部も拒否は出来なかった。というのも、以前は芸協も鈴本で興行を行っていたのだが、入りが悪いので席亭が芸協の幹部に
『噺家協会から助っ人を一二名番組に入れたらどうか』
と提案したのだが、これに当時の幹部は自分たちの協会が卑下されたとして激怒し、鈴本では協会の噺家は出演させないと通告したのだ。それ以来この鈴本に芸協の噺家が出演した事は無い。
だから今回の事は特別なのだ。もしここで仙蔵の頼みを断れば噺家協会との関係も悪くなるし、今度は自分の協会員が噺家協会の会員の出演を頼んでも拒否されかねないと判断したのだ。それに当時の幹部はこのところ次々と亡くなり存命は、当時の会長だった古今亭麦丸だけとなっている事もあり、協会の雰囲気としては、若手からは話す場所の拡大を求められている事もあり、やがては和解しなければならないと言う雰囲気がある事も原因だった。
麗々亭柳生は今や芸協を代表する噺家に育ち、名人としての評価の高い仙蔵と同じ高座に立たせてみたいと思う幹部も居たのだった。
独演会は前座の後の開口一番で仙蔵が挨拶をして今日のゲストの柳生を紹介した後で「二番煎じ」をやった。その後で柳生が「初天神」を演じた。その後は仲入りとなり、食いつきでは仙蔵と柳生の対談で、膝として三味線漫談の師匠が出て、トリに仙蔵が「文七元結」をやって追い出しとなった。神山は仲入りで楽屋に挨拶をした時に柳生に
「終わったら少し噺があるんだけど」
そう頼み込むと
「噂聞きましたよ」
柳生がそう返すので
「え、早いな……」
驚きに近い感想を口にすると、奥に居た仙蔵が
「それ、聞きましたよ。面白そうじゃないですか。俺にも一口乗せて下さいよ」
そんな事を言って来たのだ。神山は
「じゃあ、終わったら何処かで飲みながら」
そういうと二人供了解したのだった。
終演後、鈴本の近くの行きつけの居酒屋で神山は二人を前にこの前の高梨との事を語った。すると仙蔵が
「正直、あのコラム俺も読みましたよ。腹が立ちましたね。古典落語の事を全く判っていない」
神山に注がれたぐい呑の酒を口にしながら感想を口にした。柳生もグラスのビールに口に付けると
「彼は古典落語の本質を判っていない感じですよね。表面的というか、軽いというか」
そう言って仙蔵の言葉に同意した。神山は、お通しの黄金烏賊に箸を着けながら
「それなら、いっそ古典の中でも特に判り難い噺をやる落語会をやろうかと言う方向になりましてね」
この前の高梨との経過を口にすると仙蔵が
「郭噺なんてやってる方も聴いてる方も未経験なんだよな」
「そうですね。自分もやってて想像なんですよね。前座の頃に経験のある師匠の話は聞きましたけどね」
柳生が仙蔵のぐい呑に酒を注ぐと神山が
「それでも分かちゃうというのが落語の凄い所ですよね」
「そうそう。そうなんだよな。俺も師匠の先代から色々と話は聞いたけど実際は知識としては知っていても経験は無いからな」
「今の吉原にあるソープランドの経験とは似て非なるものですからね」
神山の言葉に仙蔵は
「神山さんも独身の頃は通ったのかい?」
「ええ、まあ、それは誰でも経験があるでしょう」
「ちげえねえ」
仙蔵がそう言って笑った。それを横目で見ながら柳生が
「具体的な事は決まってるのですか?」
そう言って実際の事を神山に問うと
「今のところは『よみうり版』の二階のホールでやろうかと考えているんです」
それを聞いて柳生は
「あそこなら四十人が限界でしょう。勿体無いですよね。きっと聴きたい落語ファンは居ると思いますよ」
柳生がそんなことを言うが神山は
「でも二つ目ですからね。そんなには……」
神山が言い淀んでいると柳生は
「神楽坂の『箪笥会館』なら区営ですから安く借りられますよ。あそこなら三百五十は入る」
神山はそれを聞いて
「いや埋まんないですよ。遊びの企画で赤字は出せないでしょう。『よみうり版』もキツイでしょうし」
そう言って話が大きくなる危惧を口にした。そうしたら仙蔵が
「俺と柳生が出れば問題ないだろう。足りねえならウチの遊蔵も出しても良いしな」
「婿さん出しますか。ならウチも柳星を出して前座の仕事もやって貰いましょうか」
二人のやり取りを耳にして神山は
「二人共正気ですか? 洒落遊びの企画ですよ」
「だから面白れえじゃねえか」
「そうですよ。そういう所に本気を出すのが粋なんですよ。ねえ師匠」
「そうだ。決まりだな。後で都合を連絡するから」
神山は事が大きくなり始めたことを実感して戸惑うのだった。
その後、二ヶ月後に新宿区営の神楽坂の箪笥会館を借りて会を催す事になった。会の名前は「古典落語を聴く会」となった。これは特別な名前を付けるのではなく古典落語の本質を追求しようという目的からだった。
出演メンバーは小金亭仙蔵、麗々亭柳生、に加えそれぞれの弟子の小金亭遊蔵と麗々亭柳星が出る事になった。遊蔵は若手真打で柳星は二つ目である。演目は仙蔵が「居残り佐平次」、柳生が問題の「竃幽霊」、遊蔵が「金明竹」、柳星は「長屋の花見」となった。
演目を決めたのは仙蔵だが、曰く
「『居残り』なんざ判らない言葉とシステムの噺だしな。それでも笑いを取れると言う事を見せてやるよ。それに問題の「竃幽霊」と残りの演目も言葉は判らないけど笑いを取れる噺ばかりだ。これは面白くなるぞ」
そう言ってほくそ笑む仙蔵に神山は
「乾先生には招待状を出しましょうか?」
そう言うと仙蔵と柳生は
「勿論ですよ」
そう言って二人はニヤリとするのだった。
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