風に吹かれて

まんぼう

第1話

 神山は高梨が開いた雑誌のページに目を落とした。それには……。


 生憎と「生活文化評論家」などと言う肩書を持ってる為、仕事で結構寄席や落語会に顔を出すことが多い。無論生来の落語好きだから、そのことに関しては苦にならないのだが、気になることがある。

 私生活でもお気に入りの噺家が出る時や落語会を開く時はチケットを取って見に行く事も多い。だからという訳ではないが、以前から気になっている事をここに書かせて貰う。

 落語。特に古典落語の多くはその元が江戸時代。新しいものでも明治の初期に作られたものが多い。生活に根ざした落語は当時の風俗を噺の中に登場させている。

 その後の数多の噺家が改良を加えて新しい時代に沿うようにしていても、二十一世紀の今日に至っては流石に綻びが大き過ぎて継衛くなって来ているのでは無いだろうか? 事例を書いてみる。

 私はあるカルチャースクールで講師をしている。その生徒さんに質問を幾つかしたことがある。内容は、落語に関するものだった。

 私の講義を聴きに来るほどだからほぼ全員が比較的に落語に親しんでいる方々である。その年齢層は二十代が少し、殆どは三十代から四十代が多い、五十代の方もいらっしゃるし、少しだが六十代より上の世代の方もいらっしゃる。

 その生徒さんに「竃」(へっつい)が何か判るか問うてみたのだ。結果は六十代以上の方はほぼ全員が「判る」五十代の方も「理解している」と答えて下さったのに対して、四十代以下の世代の方は全員が「知らない」と返答があった。中には「知らないけど何か大事なもの」と答えてくれた方も居て、それはそれで間違ってはいないが、漠然とし過ぎている。私が

「竃とはかまどのことですよ」

 と言うと三十代以下の世代の方々はかまども知らなかったのだ。こんなことは幾つもあり、古典落語に登場する生活風俗が今となっては全く変わってしまった為に、多くの観客が噺の本質を理解出来ないままになっているのだ。

 勘違いされては困るが、落語は大衆芸能である。能狂言や歌舞伎みたいに見る前に予習が必要な芸能ではない。しかし、現代人の生活とかけ離れた世界を描いているのは同じである。このまま行くと落語は全く判らない価値の無いものに落ちて行く未来が見えるではないか。そのうちに「全く価値のないもの」になる前に、落語の関係者は大衆芸能の看板を下げて能狂言や歌舞伎のように古典芸能の仲間に入れて貰った方が良いと思う。そして大衆芸能として優れた新作落語がその座に座るべきである。


                 生活文化評論家  乾 泰蔵


 ある落語会が終わり、神山孝之はホールで、旧知の「東京よみうり版」の記者の高梨によびとめられ、彼が出した雑誌のコラムを読んだところだった。それをテーブルの上に置く。神山は先年、長年勤務していた演芸情報誌「東京よみうり版」を退社しており、フリーの演芸評論家として活動していた。

 退社した理由は、一人娘の恵が保育園に通うことになり、その送迎を普段は神山が担当することになった事もあるし、元から会社以外から原稿を依頼されることが多く「よみうり版」としても基本的にそれを許可していたこと。それは中小出版社である「よみうり版」としてもそれほど多くの報酬を支払えない事もあり、神山がフリーになることを勧めたのだ。無論、会社を離れても神山は「よみうり版」に記事を連載しており、それは読者にとって好評なようだ。

 妻の薫は女優、橘薫子(たちばなきょうこ)として芸能活動しており、ドラマや映画には常連のように出ている。時間があれば妻の薫が子供の恵の送迎をするのだが、いかんせん売れっ子なので、中々時間が取れない。そこで夫の神山が担当することになったのだ。

「どうですかそれ、神山さんはどう思います乾さんは結構テレビにコメンテーターとして出ていますけどね」

 高梨に言われて神山は

「どうって言われてもな。そもそも門外漢が何を言ってるんだというのが正直な感想だが、言葉や生活の違いは痛いところだな。無論噺家の中にはそれを理解して噺をわかり易くをモットーにしてる奴もいるけど、そう言う噺家ほど」

「評価が低いですよね」

「何だ判っているじゃないか」

「それは神山さんの後輩ですからね」

 高梨はポケットからタバコを出して火を点けて神山にもタバコの箱を差し出して勧めた

「いや、子供が出来てから電子たばこに変えたんだ。女房が嫌がってね」

「薫さんらしいですね。確かに吸いませんからね」

「子供に悪影響があるからだろう」

 電子たばこを吸いながら神山は

「今度、我こそは落語通という連中を集めて、特に通じない言葉や用語が多い噺を聴かせる落語会を開いたら面白いな」

 神山の冗談のような提案を聞いた高梨は

「それ面白いですね。編集長に提案してみますよ。編集長もこの雑誌の記事に対して腹に一物ありそうでしたからね。それにそのレポートを神山さんが書けば更に面白いですね」

「どこが主催するんだ? よみうりでやるのか、佐伯が許可出すか?」

 佐伯とは神山の同期で今は「よみうり版」の編集長をしている者のことだ。神山の言葉に高梨は煙を吐き出しながら

「実力のあるふたつ目さんでやれば、それほど経費は掛かりませんし、場所はウチの社の二階のホールで出来るでしょう」

 神山は二階のホールの様子を頭に描いてみた。

「高座を作って、パイプ椅子を並べてか?」

「まぁそうなりますね。最低でも三十人は入るでしょう」

 神山も頭の中で描いてみて、三十人は最低だと思った。詰めれば四十以上は入りそうだと思った。出演するふたつ目を二人にしてたっぷりと演じて貰う。入場料を二千円として四十で八万円。経費を引いた残りをギャラに充てれば何とかなりそうだと考えた。

「兎に角、このコラムは編集長も読んでいますから、落語会の話は提案してみますよ。神山さんも乗り気だって言って」

「そうか、具体的なことが決まったら柳生に声かけてみるよ。生きの良い奴を知ってるだろうしな」

 神山の言葉に高梨は

「柳生師と言えば弟子の柳星くんが二つ目になっていましたよね。彼も結構評判が良いんですよ」

「ああ、身近に居るので存在を忘れていたよ」

 神山はそう言って遠い目をした。


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