第82話 大事な人の為に

「さぁ。早くこっちに渡すんだ」


 怪しく光るナイフの切っ先。


 当然俺はこれまで刃物を向けられた事は無い。だから知らなかった。


 これ程までに体が硬直するなんて。


「――っ! せ、先生。落ち着いて下さい。それは幾らなんでもまずいです」


「君が華ヶ咲さんを渡してくれればこれを使わないで済む話さ。……僕は今まで欲しかった物を手に入れれなかった事は無いんだよ。だから、欲しい物があればどんな手でも使うよ?」


(ま、マジかよこの人……! 完全に壊れてやがる……っ!)


 取り敢えずこうなってしまっては警察の力を借りるしかない。ナイフを持った狂人なんて一般人が相手するのは危険過ぎる。


 俺はスマホを取り出す為、澤田先生から目を離さないようにしながらポケットへとゆっくり手を持っていく。


 だが、


(……嘘、だろ。こんな時に俺って奴は!)


 ある筈のスマホがない。自分の記憶を遡ると、道場前で走り出した時に落としたようだ。


「……彩乃先輩」


 俺は小さな声で呟く。


「……なに」


「――走れますか」


「……ごめん。ちょっと、無理かも」


 そりゃそうだ。女の子がこんな状況下に置かれて体が動く筈がない。


 ……覚悟を決めるしかない、か。


「……いいんですか、澤田先生。そんな物を生徒に向けて。こんな事が学校にばれたら貴方は学校にいられなくなりますよ」


「だからこんな事を僕にやらせないでくれたまえよ。別に難しい事を要求しているつもりはない筈だよ? ただ君の後ろにいる彼女を渡してくれと言っているだけさ」


 澤田先生はナイフの刃を触る。その姿は狂気を纏っていた。


 この状況で一番優先すべき事は彩乃先輩の安全。俺の事なんて二の次でいい。


「……彩乃先輩。少し、お願いがあります」


 その時、後ろから手が伸び俺の体に巻き付く。まるで、行くなと俺をこの場にとどめるように。


「……いや」


 俺の考えてる事を先読みした彩乃先輩は、消え入るような声でそう言った。


 俺だって本当は凄く怖い。


 だけど、こうするしかない。


「聞いて下さい。俺が澤田先生を何とかして押さえるので、彩乃先輩は人を呼んで来て下さい」


「……」


 返事はない。だが、俺の体に巻き付く腕の力は一向に緩まない。それどころか段々と強くなっていく。


「――妬けちゃうねぇ。初めてだよ。僕が狙ってる女が目の前で違う男に抱きついているのはさ。早く離れてくれないか。それは僕の女だ」


『僕の女』


 その言葉に、張っていた糸がプツンと切れる。


「……少し黙れよ」


「ん?」


「黙れって言ってんだよ……っ! この変態野郎……っ」


 自分でも驚く程冷たく低い声が出る。自分にこれ程怒りの感情があったのか。


 澤田先生への恐怖に支配された俺の心は、憤怒の炎でその恐怖を焼き尽くす。


「政宗、君……?」


「すいません。彩乃先輩。少し、離れますね」


「……だめ。駄目だよ政宗君。あいつは本気。政宗君にもしもの事があったら私――」


「大丈夫ですよ。……彩乃先輩、無理を言うかもしれませんがここから逃げて下さいね」


 刹那、俺は彩乃先輩の絡み付く腕を力づくでほどき走り出す。


「……本当、頭の悪い子だね」


 澤田先生がスッとナイフを構える姿を捉える。


 その時、俺はある言葉を思い出していた。





『――勝負事においては先に冷静になった方が勝ちだ。一点だけを見るのではなく、全体を視界に入れるようにし戦うんだ』





 相手をしっかりと見る。ベンさんの言葉だ。


 怖がらず、相手の攻撃をしっかりと目で捉える。


「――フッ!」


 光るナイフの切っ先が突っ込む俺目掛け真っ直ぐ飛んでくるのが分かる。


 怖がるな! 目を開け! 目を閉じたら敗けだ!


「――ッッ!!」


 俺はギリギリの所で澤田先生から繰り出された刃をかわす。だがギリギリでかわしたからか、俺が避けた刃はそのままの軌道を維持し、俺の腕へとヒットする。


(――痛ッ!!)


「あははははははははっ! 痛そ~っ!」


 焼けるような痛みが一瞬全身を駆け巡るが、直ぐに意識を敵へと向ける。


「な、何っ!?」


 切りつけたのにも関わらず足を止めない俺に驚いたように、澤田先生は声をあげる。


「はぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!」


 雄叫びをあげながら俺は澤田先生の足目掛け全力でタックルを仕掛ける。捨て身のタックルは見事に澤田先生の下半身を宙に浮かせ、アスファルトの硬い地面に思い切り叩きつける。


「――彩乃先輩ッッ!! 逃げて下さいッッ!!」


「……っ! この――クソガキがッ!」


 澤田先生は片足を俺の腕から引き抜き、引き抜いた足をそのまま伸ばし俺の顔面へ蹴りを入れる。


 ガードも何もしていない俺へ入ったその一撃は、かなりのダメージだった。目の辺りに蹴りをもらったからか視界はぼやけ、鼻から何か液体状の物が垂れてくる。口の中も鉄の味が広がっていく。


(やば……っ!)


「お前みたいな人間が……僕の邪魔をするなッッ!!!」


 ぼやける視界の中で振り上げられたナイフの輝きを捉えた俺は、全力で後ろに回避する。


 その後、俺のいた場所に全力で振り下ろされたナイフがアスファルトを突き刺す。


(――ッ。これは……マジでやばい……っ!)


 切られた腕からは今も血が滴り落ちてくる。痛みの割りにはかなり傷が深いみたいだ。


 俺はちらっと後ろを見る。……彩乃先輩はすっかり腰が抜けてるみたいだ。無理もない。


「……教師生命終わりましたね、澤田先生」


「教師なんてどうだっていいさ。こんな事親のコネで揉み消せる。……本当にまずいのは君だよ。僕にこれほどたてついたんだ。幸せな人生はもう歩めないよ」


 そう言えば空閑が言ってたか。親が金持ちだなんだと。


 生まれてから俺は金に困っていた。金持ちはどんな奴なんだろうと思い生活してきたが、華ヶ咲家みたいな人もいれば、こんなどうしようもない奴もいるのか。


(上級国民ってか……。本当、人生は不平等だよ……)


 俺はふぅっと息を吐き、構える。


「……大丈夫。殺しはしないよ。ただ伍堂君には少し別の場所でお話がしたいから、ちょっとだけ眠っててもらおうか」


 澤田先生はナイフを放り投げ、黒っぽい棒状の物を取り出す。あれは……、


「何でもありかよ……」


「大丈夫大丈夫。少しビリッとするだけだからさ」


 その黒っぽい棒状の物――スタンガンで自分の肩をトントンと叩く澤田先生。


 あれで攻撃されたらそこで終わり。電気を流された事はないが、流石にあれを受けて意識を保てる自信はない。


(……本当のヤンキーみたいだな、俺。血だらけだし)


 こんな時なのに下らない事を考えてしまう。


 ……いや、こんな時だからか。


「――ッ」


 先手必勝。


 俺は痛む体を忘れ、全力で駆け出す。その俺に合わせ澤田先生もスタンガンの先を俺へと突き刺すようにして向ける。


 突き出されたスタンガン。今までの俺なら確実に避けられなかっただろう。


 だが、


(ベンさんの突きの方が全然速いんだよッ!!)


 スタンガンを間一髪でかわした俺はそのまま澤田先生の懐に潜り込み、


「――ッシ!!」


 下から上へと捲り上げるようにして撃つ打撃技――アッパーカットを澤田先生の顎目掛け打ち込む。


 拳と顎の骨が当たる感触。


「ウグッ――」


 俺の拳が見事にクリーンヒットした澤田先生の体は、そのまま後ろへと倒れこむ。


 それと同時に、俺もその場に尻餅をつく。そしてドクドクと脈打つ俺の腕。……やばい。腕の感覚が鈍い。


「……ってぇな。おい」


「……嘘だろ」


 聞きたくなかった声が聞こえてくる。その声の主は顎をさすりながら、冷たい目で俺を見る。


「お前だけは絶対に許さない……っ。あの女も同罪だ。優しくしてやろうかと思ったが……やめだ」


 澤田先生は再度スタンガンを握る。


「まずはお前からだ伍堂政宗ぇ……っ。地獄を見せてやる……っ!」


(ま、まずい……っ)


 後ろを見ると、もう声も出なくなった様子の彩乃先輩が震える手をこちらに向けている。


 何とか体を動かそうとするが、全く言うことを聞かない。


「お前をきっちり教育した後、あの女もしっかりと教育してやる……っ! ――あれは、俺の女だ」


「くそ野郎が……っ」


 万事休す、か……。


 その時だった。











「――おい。誰が誰の女だって?」











 刹那、俺の目の前で怪しく口角をつり上げていた澤田先生の姿がなくなる。


 ……いや、あいつの体は何故か遠くへ投げ飛ばされていた。


 そして、俺の目の前には馴染みのある黒いスーツ姿、夜だというのに漆黒のサングラスを掛けている人間が立っていた。


「大丈夫、じゃなさそうだな。政宗」


「……ははっ。遅いっすよ……」


 優しい笑みを浮かべたベンさんが、満身創痍の俺の肩に手を置いた。

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