第39話 大人
「――ふぅ~。あぁ……しみる……」
鈴乃さんとの夕食後、俺は嘘みたいに広いお風呂で抜けた声を上げていた。
華ヶ咲家の人間以外にも使用人がこの家に常駐しているとはいえ……大きすぎるだろ、この風呂。何人用だよ。
とはいえ足を折り畳む必要もなく湯に浸かれるというのはとても心地がいいもので、鈴乃さんとの夕食で張りつめていた緊張がほぐれる。
「……そーいや、今日ここに泊まること言ってなかったな……。後で言っとかないと……」
夕食を食べ終えた後、そそくさと退散しようとした俺を鈴乃さんは呼び止め、「今日は泊まっていきなさい」とのこと。
俺は丁寧な言葉遣いを意識しながら必死に抵抗した。だが娘の彩乃先輩に勝てない俺がその母に勝てる筈もなく……。
(まさか泊まる事になるとは……。夢にも思わなかったぞ……)
お湯をパシャっと顔にかけ、ジッと脱衣場と風呂場を繋ぐ扉の磨りガラスを見る。
フィクションの世界ではこういったイベントの時に起こるハプニングは決まってる。男なら一度は妄想した事のあるハプニング。
「……って、まさかな。そんな事あるわけ――」
そうだ。
フィクションの世界みたいに、あの磨りガラスに肌色の影が映るわけ――、
「……あれ?」
俺の視線の先には磨りガラス。そしてその磨りガラスには……人の影があった。
耳をすませば衣擦れの音も聞こえる。それと比例するように俺の心臓の音も激しくなる。
(まじかまじかまじかまじかまじかまじか!!!!)
俺の言葉に言霊が宿ったのか。その人影は浴室へと向かい徐々に大きく――って、あれ?
(なんか……でかいな)
俺が予想した体の大きさではない。その黒く大きな体は浴室の扉を開け、俺の前に現れる。
「――ん? おお! 政宗じゃないか!」
(……だよね。そうだよね。いや、期待してた訳じゃないからね。うん。……うん)
肩に白いタオルを掛けた状態で現れた、この家に仕える護衛のベンさん。
見事な筋骨隆々の体つき。服越しでも主張していたその筋肉は幻ではなかった事を俺に見せつける。
「お、お邪魔してます。ベンさん」
風呂に浸かりながらではあるが、軽くお辞儀をする。
「そんな固くなるなよ。……そうか。鈴乃様が言ってたのはこういう事か」
「……こういう、事?」
ベンさんは掛け湯した後、肩に掛けたタオルを頭に乗せ豪快に風呂に浸かる。
浴槽からはベンさんの体の大きさを表すかのように、大量の湯が外に放出されていく。
「……あぁ~。――今日この屋敷に客人が泊まるからっていうのをさっき言われてな。まさかそれが政宗だったとは」
ベンさんは少し怪しく笑いをこぼす。若干気になったが敢えてスルーし、
「俺もびっくりですよ……。鈴乃さんは何考えてるんでしょうね」
「……さあなー。……そういや政宗。お嬢から何か相談事とかされてるか?」
いつもサングラスを掛けていたから分からなかったが、意外にもベンさんの目はくりっとしている。
そんな可愛らしい目が俺を捉え、鈴乃さんと同じような質問がベンさんから飛んでくる。
「……いえ。特には」
「……そうか。やっぱ政宗にも話してないか……」
「ベンさんは何か知ってるんですか?」
「何も知らん。だが何となくお嬢の挙動や発せられるオーラが違う事は確かだな」
俺よりも彩乃先輩と長い時間を共にしてきたベンさんや鈴乃さんが察したということは……やはり何かあるのか。
(でも彩乃先輩が何も言わないのに俺から聞くのは……迷惑、だよな)
俺と彩乃先輩の関係に名を付けるなら……何なのだろう。
あやふやな関係。そんな関係だからこそ、どこまで踏み込んでいいのかが分からない。
この関係に名付けをしたい気持ちと、この関係を維持したい気持ちが俺の中にずっとある。
水面に映る自分の顔を見ながらそんな事を考えていると、
「……あまり考えるなよ」
肩まで浸かり遠くをボーッと眺めるベンさんから、そんな言葉が響く。
「お嬢にも言える事だが……政宗はまだ若い。時には立ち止まり考える事も必要だが、結果を気にせず走りきった方がいい時もある」
「……走りきってしまったら、間違った時に取り返しがつかないと思います」
「なら一生立ち止まってるのか? そのままじゃゴールはできない。ゴールしたいなら走り出さないとな」
「そんなの詭弁だ」と思ってしまう俺は、まだ大人になりきれてないのだろう。
そんな自分を嗤うようにフッと笑いをこぼし、
「……カッコいいっすね。ベンさん」
「おいおい。俺にそっちの趣味は無いぞ」
「心配ご無用です。俺にもその趣味は無いです」
俺とベンさんは男らしいアホな会話を交わす。
こんな風に緊張せず年上の人と会話できるのは、ベンさんが大人だからなのだろう。
「――よし! じゃあ俺は先にあがるぞ」
力強く立ち上がったベンさんはそう言い脱衣場へ繋がる扉へと歩いていく。
……この人入ってくる時もそうだったけどマジで隠さないな。
俺は何気なく目線を下へとずらし確認。
――うん。これは年の差だきっと。いや、俺は成長期だから。気にする事はない。
「政宗ー! じゃあ外で待ってるからなー!」
「え? 何でです?」
「今日泊まる部屋に案内しろって鈴乃様から言われてるんだよ」
そういえば詳しい事は聞かされてなかったな。
「わかりました。僕もすぐ出るんで」
「いいよ。ゆっくり浸かれ。じゃあ後でな」
そう言い残しベンさんは脱衣場へと消えたいった。
やっぱカッコいいな、と思いながら俺は急ぎ足で体と頭を洗うのだった。
◆
「……ベンさん?」
「俺は関わってないから俺に文句はお門違いだ。というか一緒の部屋で寝た事あるんだろ?」
風呂から上がり連れてこられた場所は旅館のような和室だった。
畳のいい匂いがするこの部屋に連れてこられた理由――それは俺がここで寝るという事だ。
それについては何も文句はない。だが、
「……見間違いだと思うんですけど――布団が2組ありますよね? しかも隣り合わせで」
枕元には燈籠のような物が鎮座しており、薄暗い部屋を橙色に優しく染める。
「――お、お母様っ!? 何で今日は和室で寝なきゃ……っ!」
「いいから。黙ってついてらっしゃい彩乃さん」
風呂上がりだというのに額に汗が滲む。
段々と近付いてくる声が、全身から吹き出る汗を加速させる。
(ま、まさか……)
「――えっ!? 政宗君っ!? な、何でここに……っ!」
(……だよねー)
そんな俺たち2人の背中をドンッと強く押し和室に入れる大人2人。
「ちょっ……ベンさん!」
「ど、どういう事ですかお母様!」
慌てて部屋を飛び出すが時既に遅し。
あの大人2人の姿は無く、残ったのは混乱状態の高校生だけだ。
(や、やられた……! ――こうなったら)
ガシガシと頭を掻きながら俺は彩乃先輩を見る。
彩乃先輩の風呂上がり姿は何回か見てきているが、この状況も加味されているのか今日は一段と艶やかだ。
「……はぁ。――彩乃先輩は自分の部屋に戻ってもらっていいですよ。あの二人には後で俺から言っとくんで」
同じ部屋で寝た事はある筈なのに、いつもより鼓動が激しい。
何故か彩乃先輩を真っ直ぐ見れず、彩乃先輩に背を向けたその時、
「……彩乃先輩?」
軽く服が引っ張られる感覚。
彩乃先輩は俺の服を軽く引っ張り、紅潮した顔で俺を見上げる。
「……もう、遅いし。――寝よっか」
俺の家に泊まった時とは違う雰囲気が、俺と彩乃先輩の間に流れた。
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