第二部
第34話 二学期、始動
「ほらこれ。里芋のにっころがしだよ。作りすぎちゃったから食べんさいな」
「ありがたいです。いつもすいません大家さん」
夏が残暑を置き土産に過ぎゆくこの季節。段々と日は短くなっていくが、体感的にはまだ夏だ。
玄関の扉の横には古びた室外機が一生懸命羽を回している。……そろそろ買い替えなきゃな。
目の前に立つお婆ちゃん――もといこのボロアパートの大家さんは汗一つかかず里芋のにっころがしが入ったタッパーを俺に手渡す。
「いいのいいの。頑張ってる子を見ると何かしたくなっちゃうのよ。婆さんのお節介を受けておくれよ政宗ちゃん」
「あはは……。お節介だなんてそんな……」
手渡されたタッパーはほんのり温かい。ダメになってしまわないように冷蔵庫に入れないと。
……腐らせたりしたら先輩に怒られる。あの人怒ったらマジで恐いんだよな。
あの鈴乃さんの娘なだけある。
「――それにしてもあれね。何だか最近政宗ちゃんの周りは賑やかねぇ」
「そ、そうですか? まあ以前と比べればそうかもしれないですね。……もしかしてうるさいですか?」
「いやいや。賑やかなのはいいことさね。政宗ちゃんの表情も明るくなってきているしねぇ」
そう言われても……実感はない。
でも確かに笑う回数は一人でいる時より劇的に増えたと思う。
「それもこれも……あのお嬢さんの影響かしらね」
あのお嬢さん――華ヶ咲彩乃先輩の事だ。
「……そうですね。その、通りです」
色々あった一学期。相変わらず俺の扱いは酷いものだが、その酷い出来事以上に楽しく刺激的な日々を送ったな。
それも全部……先輩がいなかったら経験しなかった事だ。
「そうかいそうかい。……あの子は政宗ちゃんのガールフレンドなのかい?」
「――ッ! ……ち、違いますよ」
「あら……そうなの。たまに見る二人の様子からしてそうだと思ってたのにねぇ」
大家さんの痛い言葉が深く心に突き刺さる。
そう。俺と先輩は付き合ってない。只の学校が同じの先輩後輩だ。それ以上でもそれ以下でもない。
だが先輩と話さない日は殆どない。今日はまだ来ていないが、もう少しで来るだろう。
(この関係に名前を付けるなら……何だろうな)
思考の海に深く潜れば先輩に対する俺の気持ちが見える。
この気持ちの名前も知っている。
だけど――俺はまだ踏み出せないでいる。
「ごめんなさいね? 変な事言っちゃって」
「……いえ、全然」
「――じゃあ私は帰るわね。政宗ちゃんも風邪引かないようにね」
そうして大家さんは自分の家へと帰っていった。
手に持っているにっころがしが、若干冷めているように感じた。
◆
「――ごめんね政宗君! ちょっと遅くなっちゃった!」
居間で宿題を片付けているとインターホンが鳴り、俺は玄関の扉を開ける。
そこには息を切らした先輩が肩を上下させていた。
「せ、先輩……。そんな慌てて来なくても」
そんな手に食材が入ったマイバックを持った先輩は――何故か不機嫌そうな顔に変わる。
「……先輩?」
ジト目で睨み、
「……敬語。先輩呼び」
俺の口から「うぐっ……」という分かりやすい声が漏れる。
「私の事は『彩乃』って呼んでってお願いしてるのに……後、敬語もいらないって」
「い、いやでも先輩ですし……。それに――な、名前呼びは本気で勘弁してもらえないっすかね?」
「何でよ! 私の名前を呼ぶのがそんなに嫌なの!?」
綺麗な顔を全面に押し出してくる先輩。
あれだけ息を切らしていたのだ。それにまだ秋とは言えない気温。
それなのに、先輩から香る匂いは相変わらずいい匂いだった。
「い、嫌とかじゃなくてですね……。先輩は先輩でして……」
「私と政宗君の仲じゃない! 年なんて関係ないよ!」
これがもし――俺の気持ちを伝えていたのなら、すんなりと先輩の願いを叶えてあげられるんだろうな。
(だけど……怖いな)
正直、今の関係を崩したくない気持ちが強い。
今まで孤独しかなかった俺の生活にやっと宿った光を、俺の言葉一つで壊してしまう湖とが怖いのだ。
玄関の扉開けっ放しでそんな攻防を繰り広げていると、
「……何してんの、あんたら」
鋭い目付きで俺達二人を捉える少女――空閑は呆れた顔で、
「あんたら、結構目立ってるよ。喧嘩なら中でやったら?」
「け、喧嘩なんてしてないわよ空閑さん!」
「そ、そうだぞ!」
「……あーそ。別にどっちでもいいし」
空閑は俺の部屋の前を通りすぎ、隣の部屋に入っていく。
隣の部屋に住んでいた喧嘩の絶えない夫婦はどうやら引っ越したらしく、その空き部屋に空閑は住む事になった。
困っている人を放っておけない大家さん。少し事情を説明しただけで、空閑をあの部屋に住ませてもいいということになったのだ。
それ以来、空閑は大家さんに頭が上がらない。
「……伍堂みたいなのが住んでるだけで大家さんに迷惑掛けてるんだから、これ以上大家さんに迷惑掛けないでよね」
そう言い残した空閑はさっさと扉を開け部屋の中へと消えていく。
「相変わらず大家さんへの感謝は凄いのね、空閑さん」
「ですね。それに俺に対する敵意も殆ど無くなりましたし」
俺と空閑は中々の因縁があるのだが、今となっては遠い昔のように感じる。
自分の家を手にいれた今でも、先輩や柚木が呼べば嫌な顔をしながら俺の家でご飯食べるし。
「――さて! じゃあご飯作っちゃうね! 早く家に入ろ!」
「あ、はい。そうしますか」
空閑のお陰なのか、先ほど流れた少し気まずい空気はいつの間にか無くなっていた。
鼻唄を歌いながら家の中に入っていく先輩の背中を見つめ、
(大人だな……マジで)
多分、先輩は待っていてくれているのだろう。俺から言葉を発するのを。
年が一つ違うだけでここまで差があるのかよ……。
「――あ、そうだ。ねぇ政宗君」
自分の情けなさを痛感しながら扉を閉めると同時に、俺の家に置いているピンクのエプロンを着けながら、
「あの話はどうするの?」
「あの話?」
「生徒会だよ。政宗君に話が来てるんでしょ?」
……あー、それか。
そうだった。また新たに問題が発生したんだった。
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