第6話 母性
「ただいまー。帰ったよ母さん」
買ってもらったばかりのランドセルを玄関に置き居間へと向かう。
「……母さん?」
おかしい。いつもなら細長い声で返答があるのだが今日は居間から母さんの声が聞こえない。寝ているのだろうか?
やけに静かな家の中。物音1つしない廊下を歩き僕は居間へと入る。
「母さんー。……何だ、寝てるのか」
居間にある年季の入ったちゃぶ台に突っ伏していた。
背中しか見えないが突っ伏しているということは寝ているのだろう。
母さんは本業の他にポケットティッシュの中に表紙を入れる内職をやっている。
余程疲れていたのか、母さんは仕事をやりながら寝落ちしてしまったようだ。ちゃぶ台の上にはティッシュがあった。ちゃぶ台の上をこちらからでは全て確認できないが、かなりのティッシュが散乱していた。
(起こすのも可哀想だし……寝かせておこう)
背後から母さんの体に毛布を一枚掛けてやり俺は自分の仕事である食器洗いに乗り掛かる。
同じ小学2年生の友達は家事を全くやらないらしい。とても驚きだ。
「母さんに何か温かいものでも作ろうかな……。でも母さんに火は使っちゃいけないって言われてるしなぁ」
そんな独り言を言いながら僕は寝ている母さんを見る。多分火を使ったら怒られちゃうよな……。
――パリンッ!!
甲高い音が静寂を打ち消す。すこしぼーっとしていた僕の意識も音の発生源に向く。
そして自分の足元で、ピンク色のマグカップが割れている事に気づく。……やっちゃった。
「うわわっ……! これ母さんが大事にしてるコップだ……どうしよう」
ピンク色のマグカップは完全に割れておりもう元には戻らない。
ど、どうしよう。取り敢えず破片を集めよう。踏んだら大変だ。
僕はほうきを持ってきて丁寧に破片を一ヶ所に集める。
後できちんと謝ろう。そしたら母さんも許してくれるはず。
(――でも、おかしいな……)
母さんは眠りが深い方ではない。いつも僕が少し動いただけで起きてしまうような人なのに、何故か今回は起きない。結構大きな音だったんだけど……。
僕はもう一度ちらっと母さんを見る。
先程と体勢も変わらず母さんは寝ていた。
「母さんが起きてからでいいか……謝るの」
寝起きに嫌な報告をしてしまうのは申し訳ないが仕方ない。
――そうだ! 今日返ってきたテストを見せてあげよう。100点だったしこれを見れば母さんの機嫌も少しは良くなるかも!
僕は急いでランドセルから今日返ってきたテストを取り出す。名前の横には大きく100と書かれている。
(喜んでくれるといいな……母さん)
母さんが起きたらコップを割ってしまった事とテストで100点取ったことを同時に伝えよう。そしたらなんかいい感じになる気がする!
物音をなるべく立てないようにし、母さんが突っ伏して寝ているちゃぶ台に近づく。
(起きた時に目に入るように置い――)
ちゃぶ台にテストの回答用紙を置こうとしたその時、俺の手がピタッと止まる。
「……なに、これ」
年季の入ったちゃぶ台の上には、ティッシュと一緒に大量の錠剤が散乱していた。
◆
甘い香りがする。そして何だか顔がとても暖かい。
俺はゆっくりと目を開ける。……まだ暗い、朝かと思ったがまだ夜みたいだ。よし、寝よう。
「おやすみ……」
「おーい。寝るなー。もう朝だぞー」
何処からか女の人の声がする。そんなに俺は欲求不満なのかよ……。
目を開けても視界は暗い。――だけど何だかとてもいい気分……。
「伍堂くーん。お姉さんの胸の感触を顔で楽しむのはいいけど遅刻しちゃうぞー」
お姉さん? 何のことを――
「――ッッッッ!!!! 」
「あ、やっと起きた。おはよう伍堂君」
俺の真っ暗だった視界は明るく照らされる。そして目の前にいるのは胸元がはだけた先輩だった。
俺の貸したジャージのチャックが下ろされ中から黒いブラが見え隠れしている。
そ、そうだった! 俺は昨日先輩を家に泊めたんだった!
「いやー驚いたよ。起きたら私の胸に伍堂君の顔が埋もれてるんだから。一瞬私の初めて奪われたのかと思ったよ」
「ほ、本ッ当に申し訳ありませんッ! 神に誓って俺は何もしてませんので!!」
俺は誠心誠意の謝罪の気持ちを表す為に頭を畳に埋める勢いで土下座する。
やばいやばいやばいやばいやばい。何がやばいってマジやばい。
え? もうこれ人生終了? この後警察呼ばれて性犯罪で捕まるの俺。
楽しいことなんて特に無かった人生だったけどもう少し生きたかったなぁ……。
「ふふっ、そんな慌てなくてもいいよ。お姉さん全然気にしてないから」
「い、いやでも俺はとんでもないことを――!」
顔が見れない。だから先輩が今どんな表情してるかは分からないが多分怒ってるんだろうなぁ。
声色に怒気は含まれてないがそれは先輩が優しいだけだと思うし……。
「もう顔を上げてよ伍堂君。確かに最初はびっくりしたけど伍堂君に抱かれている内に私も楽しくなってきちゃってたしね」
「え――」
意外な言葉が返ってきた事にびっくりした俺は頭を少し上げ先輩の表情を伺う。
先輩の表情からは憤怒や侮蔑といった感情は感じられず、寧ろ余裕が見てとれた。
「伍堂君を私の胸に埋めている時に何て言うのかな……。――母性? みたいなものがこうぐわってきたんだよね」
「は、はあ。母性、ですか」
「うん! いつも怖い顔してる伍堂君の寝顔はすっごく可愛くてね、お姉さんそのギャップにやられちゃった」
純真な笑み、というより妖艶な笑みといった方が今の先輩には当てはまる。
これが、年上の色香というやつか。
「――よし、伍堂君も起きた事だし泊めてくれたお礼に私が朝ごはんを作ってあげよう!」
ジャージのチャックを上まで上げ先輩は立ち上がる。
一瞬、心の中でチャックが上がったことに気を落とした俺がいたがすぐさまそいつをデリートする。
「い、いや! そんなの申し訳ないですよ!」
「いいのいいの、私がしたいんだから。どのみち何かお礼はしたいと思ってたし。――あ、私の胸がいいならもう一回やってあげるけど」
ボっと俺の頭が蒸発する。
「――ぷっ、あははは! 冗談だよ冗談! その様子じゃ伍堂君壊れちゃいそうだしね」
「……っ! か、からかわないで下さいよ」
「ごめんごめん! ――さぁ、作りますか。キッチン借りるねー」
「え、……はぃ。すいません」
先輩が変なこと言うからあの感触が顔に甦る。――柔らかかったなぁ。
(って! 何考えてんだ! 俺!)
心頭滅却、素数を数えろ。煩悩退散。
何か他の事をして気を紛らそう。……取り敢えず制服に着替えるか。
学校に行く格好をすれば暗い気持ちが押し寄せてきてこの浮わついた気持ちを押さえてくれるに違いない。
一度リビングに行き制服を取る。ちらっとキッチンに立つ先輩を見てしまう。
意外に料理が出来ないのかと思ったが流石華ヶ咲先輩。全然そんな事は無く、見た感じ戸惑っている感じはなく手際よく朝ごはんを作っているようだ。
「――ん? どうしたのさ伍堂君。まだもうちょっと掛かるよ?」
「あ、いえ。制服を取りに来て……」
「あー、そういうこと。もうちょっとで出来るから待っててね」
……すごい変な感じだ。一晩経ってもやっぱり自分の家に人がいるのは慣れない。
しかもキッチンに女の人が立ってる 光景を拝めるなんて……生きてて良かった。
(そういえば、何か夢を見たような……)
寝室で制服を着替えている最中、そんな事を思い出す。
確かに何か夢を見た筈なんだが……なんだっけ?
母さんが出てきた気がするが……。
「……まあ、いいか。どうせ夢だし」
母さんが出てきたのなら俺にとっては思い出したくない過去だ。あまりあの頃の記憶は好きではない。
「おーい! 出来たよー」
「あ、はーい。今行きます」
キッチンから先輩の声が聞こえる。
他人が作った温かい料理を食べるなんて何時ぶりだろうか。
リビングに行くといつと1人分の食事しか置かれないちゃぶ台に、今日は2人分置かれている。
よく見れば長いこと使われてなかった茶碗も出してある。
「じゃあ食べよっか」
「はい、いただきます」
完璧超人の先輩が作るご飯。
不味い訳がなくとても美味しかった。
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