第8話


 何も見えない。


 何も匂わない。


 彼が幼い頃から頼りにしていた自分の瞳と鼻は今やなんの役にも立たないものになっていた。



 視界を白く染める煙が地下の礼拝所に瞬く間に広がる。


 呼吸をした途端鼻に焼け付くような痛みを感じた。



「嫌だぁ!、もう嫌だあ!」



 白く染まった視界のどこかから弟の悲鳴が聞こえる。


「ゴホっ、落ち着けクルメク!、声を上げるな!」



 これは敵の襲撃だ。



 彼はそう確信した。

 追い込んだ獲物を一網打尽にする為の罠。


 自分達も狩りを行うときにするやり方ではないかと彼は結論付ける。


 ならば敵の狙いは自分達をこの地下室で追い詰めるつもりに違いない。



「ここへいてはダメだ! 母様!、ラプチャを連れて一番頑丈な貯蔵部屋へ上がれ!、クルメク!2人についていけ!、決して扉を開けるな!」



 父親に戦いの才能を授けられ、それを磨いていた彼は現状の打開策を家族に伝える。



 先手を取られた時点で、彼らが取れる行動は限られている。



(この煙を生んだ道具は真上の隠し穴から落ちてきた。つまり我らの寝室部屋は既に敵に侵入されているはずだ。)


 彼は冷静に状況を分析して、貯蔵住居への隠し穴を一直線に目指す。


 白い煙は重たく、依然として部屋を閉ざしていたが構造は全て覚えていた。








 ………




 部屋が煙に満たされている。



 息子の怒号が聞こえる。ああ、あの人が怒った時と同じね。


彼女は呑気なことを考えていた。




 煙が部屋に満ちていく。


 彼女はぼうっと立ち尽くしたままだ。



 一体自分は先程何をした?



 勇敢な息子が一族を侮辱した精霊に対し、果敢に問答を投げかけた時、精霊士である自分は何をしていた?




 何もしていない。



 自分が守るべき、精霊に怯える心の優しい末の息子を強引に押し退け地面に突き飛ばし、まだ立つことも出来ないかよわい娘を投げ捨てた。


 そしてした事と言えば、惨めに怯えながらはいつくばることしかできなかった。


 いやしなかったのだ。



 彼女の下唇から青い血が一筋流れる。鋭い犬歯で噛み切ってしまったようだ。


 無意識に行う瞬きを繰り返し、深く息を吸い込む。




「ガァ!」


 喉が焼け付く痛みで、彼女は我に帰った。今は感傷に浸っている場合ではない。



 足元で小さく泣く娘を抱き上げようと近づく。


 その顔に涙が溢れているのは、この臭い煙のせいだけでは決してないのだろう。




 涙で固まった表情の娘を抱き上げると、ビクっと震えた。彼女が抱きしめた後も微かに震え続ける。


 娘が煙を必要以上吸い込まないようにその小さい口を手で覆う。


 掌にも小さな振動を感じる。




 その震えの原因はきっと、この煙のせいではないことが何より彼女には辛かった。



 それでも彼女は隠し穴のほうへ歩みを進める。



 族長である夫は常に最悪のケースを考えて色々な訓練を家族にも課していた。

 おかげで家族全員がこの部屋の、構造を熟知していた。



……



「こっちだ!、皆はやく!」



 彼は一足先に地下室の右隅にある貯蔵住居へつながる横穴に辿り着いていた。



 部屋に満ちる白い煙は一向に薄まる気配はない。


「ゴホっ、ゴホっ! くそ、煙が濃い」


 部屋のどこかにいるであろう、家族に大声で叫ぶ。大口を開けた為、多量の煙が彼の体内に侵入する。



 これはまずい。


 彼は口元を手で押さえ、乱れる呼吸を努めて落ち着かせようとする。

 深くゆっくりではなく、浅く、静かに息を吸い、吐く。



 心臓の鼓動を抑えながら1つの疑問が先程から彼の思考の中に淀んでいた。


 なぜ、自分達はこの状況で生きている?


 この煙はその異様な匂いで自分達の鼻を潰した。そしてその濃い密度は視界をすら閉ざしている。


 先程のように多量に吸い込めば、喉や鼻の粘膜が焼け付くように痛み、途端に咳き込んでしまう。



 だ。


 それだけの事でしかない。少なくとも現状は。


 何故だ?と彼は自問する。


 この敵の目論見が分からない。

 先程自分が砕いた石碑に刻まれた忌々しい予言。それに出てきたヤツとは間違いなくこの[敵]の事だろう。



[敵]は自分達へ攻撃を加えている。

 これは間違いない。寝室住居へ侵入して、地下への隠し穴からこの煙を落としたのだ。



 なぜこの煙なのだ?


 敵はこれ以上毒性の強いものを用意できない?、我々の毒への耐性を誤ったのか?



 色々な思考が彼の脳裏を駆け巡る。

 これよりもっと強い毒ならば既に自分達は死んでいるはずだ。


(致死性の少ない手段で敵は一体何をしようとしているのだ?)



 その思考の結論が出ないまま、彼が更に考えを深めようとしたその時だった。



「レドっ…、ゲホっ、どこですかっ?」



 白い煙が不自然に揺らめく。その中から母のか細い声が聞こえた。




「母様! こちらへ!」


 煙が揺らめき母の輪郭をなしている。


 彼は煙を掻き分けながら鼻と口を手で覆いその輪郭に近づいた。



 その輪郭も彼に気付きこちらへ向かってくる。




 煙の中から母の姿が露わになった。




「っ!…」


 彼の抑えた口元の中で息が漏れる。


 母の姿を見て、一瞬動きが止まった。




 大きなアーモンド型の瞳は大量の涙で濡れ、真っ赤に充血している。


 すっとした鼻からは同じように大量の鼻水が溢れている。



 口元を手で覆わずにいる粘膜は煙によってボロボロになっていた。



 なんで、と彼は訝しむがすぐに理解した。


 彼女は末の妹を抱きしめていた。



 抱きしめながらでも、自らの口や鼻を抑えることは簡単だろう。



 だが彼女はそれをしていない。



 手のひらは妹のために使われていた。


 本来なら彼女の口元にあるはずの二本の手のひらは、幼い妹の顔を守るようにそこにある。



「ラプチャを、お願い…」



 かなり憔悴しているようだ。掌で口元を抑えていた彼と違い、母はそれが出来ていない。




 彼は妹を母親から受け取り、母に倣い、口元を覆ってやる。



 途端に目に強い痛みを感じる。


 鼻から直接入ってくる煙が目に登ってくる。



(母様は、ラプチャのためにずっとこの痛みを…!)



 彼はその母の行動を思うと、何故か胸の奥に柔らかく暖かいものを感じた。



 状況は依然として良くはないが、自分達ならば切り抜けられる。

 そんな気がした。




 先程、妹を投げ捨てた事はなんだったのだろうか。


 ささくれが刺さったような小さな疑問がよぎる。


 しかし今はそれは些細な事だった。


 そしてその事について深く考える余裕も彼にはなかった。









 貯蔵住居へ逃れる為、妹を抱きしめながら、母に口元を手で覆うように指示して隠し穴へ先導する。



 早くこの煙から逃れなければならない。このままここにはいられない。




 ……


 ここにはいられない?


 彼が隠し穴へたどり着いたその時、自らの思考に対して引っかかるものを感じた。




 急いでここから逃げなければいけないのは確かだ。



 煙は確実に自分達の体を蝕んでいる。母の様子を見ればそれは一目瞭然だ。



 戦士として体を鍛えている自分や、成体の母ならばまだこの程度で済んでいるが、妹は違う。


 先程から腕の中で浅い呼吸を繰り返している。


 早く煙から逃がさないとどうなるかわからなかった。



(だが、何か、嫌な予感がする。何かを見落としているような。忘れているような)



 だめだ、考えがまとまらない。



 更に考えを整理しようと彼が立ち止まった瞬間



「レド…、クルメクは?クルメクはどこ?」





 弟がいない。



 彼は母と妹を見つけた安堵から弟のことを失念していたのだ。




 自分を殺してやろうかと呪いながら、叫ぶ。



「クルメク! こっちだ! 貯蔵住居の隠し穴に来い!」



 彼は部屋の中心に向かって叫ぶ。





 返事はない。


 煙に覆われた部屋では気配を感じる事は難しく、鼻が潰れているため匂いも分からない。



 彼の額から一筋、汗が流れた。



「レド、クルメクは私が探しますっ…ラプチャを早く煙の届かない上の方へ」


 母が懇願するように彼に伝える。腕の中の妹が震え始めている。


 もう余裕はない。


 彼は母に向かって頷くと、隠し穴に入った。


 壁に空いている穴はすぐに上向きに方向が変わり、一直線に真上の貯蔵住居に登れるように掘られている。



 穴の壁から木の根が飛び出ている。煙にまぶれているが、よく見るとそれは等間隔に横向きに生えていて、ハシゴの役割を成していた。


 彼の母親と弟が力を使い、木の根を操作して作ったものだ。


 この隠し穴にも重い煙が充満している。


 上を見上げると心なしか煙が薄くなっているようにも見えた。白い煙の向こうに木の根が見え隠れしている。



(ここよりはマシか…早くラプチャを少しでも煙が薄いところへ)



 彼は小さな妹を片腕で抱き直す。ハシゴのようになっている木の根に手を掛けようとした、その時だ。




 カタ。


 何かを踏んだ。


 固いものだ。


 煙によって足元がほとんど見えない。そこに落ちていたものを気付かずに彼は踏みつけていた。



 一体なにを踏んだのだろうと、彼は足の感触を頼りに足元を攫う。



 すると指先にものがあたる。


 それを拾い上げた瞬間、



「なっ…!」


 それを拾い、彼は弟の行方をすぐに理解した。



 弟の鉈だ。


 それが隠し穴の中に落ちている。部屋にいないわけだ。弟は煙が部屋に落ちてきたすぐにこの隠し穴に逃げ込んだのだ。



 よっぽど焦っていたのだろう。腰蓑につけている手製の鉈が落ちていることにも気付かず、煙から逃れようと隠し穴を登ったのだろう。



 彼はすぐに部屋の方を振り返り、母に呼びかける。



「母様、クルメクは部屋にはいない! 早く隠し穴へ!」



 彼はすぐにまた隠し穴へ踵を返し、片腕でハシゴの根に手をかけた。



 弟が既に上に逃れているのならそれでいい。後は妹を煙から遠ざけなければ。




「くそっ、バラバラだ」



 てんで皆の行動がまとまらない。これでは迅速な対応など不可能だ。


 毒づきながら彼が木の根を登ろうとした時、


 ふとはじめての狩りで父から送られた言葉を思い出した。




(レド、覚えておけ。狩りの肝要は獲物に連携をさせないことにある。先手を打ち、驚かせ、崩すのだ)




 まさに今がその状況だな、と彼は自嘲する。


「父よ、これではまるで我々が…」


 彼ははた、と動きを止めた。



 わかった。[敵]の狙いが。




 彼は手をかけようとした木の根を見つめる。



 これは誰が操作して作ったものだ?、決まっている。

 精霊士の母と、それによく似た資質の弟だ。



 弟は何故逃げた?決まっている。

 煙から逃れるためだ。

 煙から逃れる為に外に出ようとしている。




 弟は木を操作して扉を開くことが出来てしまう。



 彼は以前参加した、灰トカゲの幼体狩りを思い出した。


 頑丈な岩と岩の間に潜む、あの獲物。警戒心が強く、自分達が入れない場所に潜むあの獲物に対して自分達はどう対処した?



 外へ出ては駄目だ。それが[敵]の狙いだ。


 ヤツは我々をここで殺す為ではなく、燻り出す為に煙を使ったにちがいない。



 彼は背筋の血管に冷や水を注入されたかのような寒気を感じる。



 そのまま、煙を大量に吸い込むことも厭わずに大きく息を吸い、上層に向かって叫んだ。


「駄目だ!クルメク!扉を開くなあああ!」


 立ち込める煙の向こうから、返事が返ってくることはなかった。



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