第9話
返事は返ってくることはない。
まずい、弟は今冷静ではない。すぐさま文字通り硬く閉ざされている扉を開いて外に逃れようとするだろう。
それが[敵]の狙いとは知らずに。
彼は背後の母の方を振り向くと
「母様、すまない。ラプチャをもう一度抱えていてくれないか、そして貯蔵住居ではなく戦士住居の方から逃れてくれ」
母は頷くとなんの躊躇いもなく口元から手を離し、彼から妹を受け取る。
そっと包み込むように妹の顔は母の手のひらで覆われる。
「レド、族長は貴方を次の族長と認め、そのヒスイを託した。貴方の判断に全て従います。ゲホっ」
軽く咳き込みながら、母はそう言い放つ。
それは母親としての言葉よりも、一族の精霊士としての言葉だった。
母は彼の顔を見てそれから、首にぶら下げているヒスイをジッと見つめる。
「本当に、若い頃の族長、いえお父さんとよく似ています。」
母は彼を通してどこか遠いものを見ているようだ。
母は続ける。
「レド、貴方が託されたヒスイには特別な力が宿っています。」
彼は自分の首にある半円のヒスイに手を当てそれを見る。
大森林の深緑をそのまま封じ込めたような色合だ。
森に囲まれた中で空を見上げたあの緑の葉に覆われた光景が脳裏をよぎる。
族長の証として代々伝えられてきた一族の宝。
だが何か力を宿しているなどといった話は聞いたことがなかった。
「母様、今は時間がない。それよりも早くここを逃れてください。おはなしなら後でー」
「いえ、今、ここで聞きなさい。」
彼の言葉を遮り、母がはっきりと告げる。普段の母と違う雰囲気に彼はおし黙る。
黙ってしまった。
「それは一族の始まりに先祖が大森林から見出したもの。予言の試練に立ち向かう為の秘宝。一族を襲う[大敵]と対峙する時のみ、目覚めるものです。」
母は矢継ぎ早に続ける。かなりの煙を吸い込んだだろうに一向にむせる気配がない。
「この毒の煙は間違いなく先ほどの予言に出てきた敵の仕業でしょう。そして」
そこで、母は言葉詰まらせた。むせたわけではなく妹をぎゅっと強く抱きしめ俯いている。
しかしすぐに彼の方へ顔を上げて、こう告げる。
「そして、恐らく戦士たちは試練の敵に破れたのでしょう。勇敢に一族を守るため立ち向かい死んだのです。彼らが健在ならこのような状況になるわけがない。」
彼が考えないよう、自分の思考から隠すように誤魔化していたことを母は淡々と語る。
その通りだ。
先ほど石碑に刻まれ、精霊から耳障りのする声で告げられた戦士達、父の戦いのゆくえ。
それは残酷な結末に終わったのだろう。
母の口から告げられた事が、彼にはなによりも辛かった。
「しかし、恐れることはありません。族長は貴方に一族の未来を託した。そのヒスイとともに。予言の試練を打ち砕くことができるのは貴方なのです。」
じっと、母は彼を見つめる。
「今から私達は予言の試練に立ち向かわなくてはならない。その時、必ずヒスイが力を貸してくださります。」
ふっと、母は顔の力を抜きそっと妹を片腕で抱き直し、余った手で彼の頰を撫でた。
「私はあまりいい母親ではなかったかもしれません。私では一族を、クルメクを救えません。お願いします。レド。」
彼は頰に当てられた手を取り
「全て任せてくれ母様。ラプチャのことだけを考えていてくれ。」
母をすぐ隣の戦士住居への隠し穴へと促す。
「上は恐らく、煙がここより薄い。私がいいというまでは扉を開けないでください」
彼は母に念を押すとそのまますぐに弟が登っていった、貯蔵住居への隠し穴へと舞い戻る。
ヒスイの首飾りを握りしめ、ハシゴのようになっている木の根を飛ぶように登った。
先程から心臓の鼓動が止まらない。
母親の話はほんの数十秒間のことだったが、今はその数秒が惜しい。
なのに、なぜか話を聞いてしまった。後回しにすればよかったのに。
そういえばあの忌々しい予言で、出てきた[敵]。父や戦士を殺したというものの、名前。人間と言っていた。
人間?それが敵の名前なのか?
彼の脳内でまとまらない思考が加速していく。
なんの整理もつかないまま、貯蔵住居へと上り詰めた。
まずい。思ったよりも煙がここも濃い。彼は舌打ちをして、そして在るものを見て一瞬目を瞑った。
扉が開いている。
そこから煙が漏れ出し薄くなっていた。
嫌な予想は本当によく当たる。弟は扉を操作し外に出てしまったのだ。
彼がすぐに弟を連れ戻そうと、扉の入り口に向かって駆け込もうとしたその時だった。
嫌だアアアア、父様!母様!兄様!助けて助けて死にたくナアアアアアー
ぶちゃ。
待て。なんで叫び声が止まるのだ。
優れた聴力に聞き慣れた音が染み込んできた。
狩りの時によく聴く音。
それは獲物の体に刃物が食い込む音によく似ていた。
そのあとに何かが倒れる音。軽い何かが地面に倒れる音がして。
彼は腰の鉈を抜いて、煙を切り裂き外にでた。
予想通りの光景が、そこにある。
彼の首元に光るヒスイは変わらず穏やかな深緑を湛えていた。
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