第5話
灰ゴブリンには性差が確認されている。我々人間には外観からは区別が出来ないが、身体能力に秀でるものや、特別な力を操るもの、また異常に目や耳がいい個体も存在する。
ルイス・ヴェーバー著
[探索者の戦闘技術]
P50より抜粋
彼の母親が地下の入り口を塞いでいる灰色の岩を部屋の脇に退ける。
この穴は一直線になっており、すぐ真下に彼らの礼拝所が存在していた。
「さあ、行きますよ、付いて来なさい」
彼の母親は幼い妹を抱き抱え、すっとその穴の中に入る。木を操る力を利用して作った穴だ。
彼らの背丈からするとかなり深い5メートルほどの深さになる。
彼の母親は妹を優しく抱きしめ体勢を一切崩すことなく地下まで落下する。一切の音もなく、落下の衝撃を膝と頑丈な足首でいなすように着地した。
彼の耳に地下の方から始めての体験に彼の母親に抱きしめられている妹がキャッキャと笑い声が聞こえてくる。
彼らの種族は岩場という急勾配の多い地域で栄えてきた。
外敵から逃げたり、狩りをしたりする中で飛んだり跳ねたりするのが上手い個体のみが生き残ってきたのだ。
今日の彼の種族の中でこの程度の高さを飛び降りることの出来ない個体は存在していなかった。
運動をする事が苦手な彼の弟も何のためらいもなく飛び降りていく。ストっ。と彼の母親の着地とは違い、少し音を出していたが問題はないだろう。
最後は彼の番だ、じっと扉を見つめ、それから首にかけた緑色の半円をあしらったネックレスを握り地下に飛び降りた。
彼が飛び降りたのち、入り口を隠していた岩がまた元の位置に戻った。
母親が木に命令して、動かしたのだろう。
地下は闇に覆われた。彼らの発達した視覚をもってしても地下は暗い。
時間をかけて増設を続けた地下の礼拝所は今や人間の尺度で言えば広さは八畳程度で、天井は約5メートル近くあるものになっていた。彼らの体格のサイズで言えばこれはかなり大きな空間だ。
彼の弟が部屋の隅に向かい、何かに手をかざす。
するとそこから薄い緑色の光が広がる。ぼんやりと部屋が明るくなり、彼の視界に部屋の有様が映し出された。
住居から生えた根がこの地下室にまで伸びている。幾重にも重なり絡み合い、それが天然の天井になっていた。
部屋の中心部にある彼の背丈ほどある長方形の板状になっている岩、石碑がその緑色の光をうけぼんやりと輝く。
母親に抱えられている妹も興味深そうにその石碑を見つめて、笑っている。
「お前…もう、そんなことが出来るようになったのか?」
彼はその父親譲りの金色の瞳を大きく広げ弟に話しかける。
「うん、兄様がお父様と狩りに出かけている間に、お母様に習ってたんだ。」
弟は恥ずかしそうにうつむきながら答える。彼らの種族は性差による役割分担がなされている。
オスは狩りを成すためにその身体的な力を磨き、メスは家を守るために精神的な力を磨く。
洞窟キノコと呼ばれるそのキノコはその中に多くの精霊を溜め込んでいる。
適正のあるものが正しく願いを込めると、今部屋を照らしているような淡い緑色の光を発するようになるのだ。
だがそれはメスが得意とする精神的な技術だった。
彼が、彼の弟に勢いよくにじり寄る。弟は思わず、目を瞑る。
彼の弟はオスらしくなかった。
族長の息子だったために今までその事を揶揄されたことこそないものの、そのことについては自分が一番わかっていたし、その事について悩んでもいた。
オスの中のオスである父親、そしてその父親の生き写しであるかのような兄。
いつも彼らと自分を比べてため息をついていた。兄にその事を責められるのではないかと、弟は体を固めた。
力強く、肩を握られ
「すごいじゃないか!!、お前、それどうやってやってるんだ?」
「へ?」
兄の反応は弟が予想していたものではなかった。
「素晴らしい才能だ。精霊と完璧に融和している。今度俺にも教えてくれ。」
彼はいつもは出さない大きな声で弟のした事を褒める。弟は、瞳を大きく開けて、唇を震わせながらゆっくりと何度も何度も頷いた。
そんな彼らの様子を母親は柔らかく微笑みながら眺めていた。
母親は思う。我が一族は変わり、これからも繁栄すると。成長した逞しく、優しい息子達を眺めながらそう確信していた。
だからだろうか。息子達に注意が行っていたために彼女は気付かない。
そんな穏やかな時間の中。母の腕の中にいる妹の顔から一切の笑顔が抜け落ちていたことに気づけなかった。
まだ家族の誰も知り得ないことだったが、彼らの一番下の妹は誰よりも聴覚に優れていたのだった。
地上から聴こえてくる同胞の怒りと驚愕と苦しみの声に、この妹だけが気付いていた。
「あら?、あらあらどうしたの?」
彼の母親が腕に抱いている娘の顔を覗き込み話しかけた。いつもニコニコしている妹からその笑顔が消えていた事に母親である彼女が気付く。
妹が生まれてまだ彼女の感覚で3カ月しか経っていない。
泣かない子だった。
上の子達は今でこそ手がかからない程度には成長したものの、この末の妹の歳の時はそれはもう毎日、毎時間泣いていた記憶がある。
それに比べて家族にとって初めての娘は、一切泣かなかった。常にその、彼らの感覚で言えば愛らしいまん丸な目をまるで眩しいものを見ているかのように細めていつも笑っていた。
家族の中で一番表情が変わらない彼女の夫もこの娘の前では心なしか頰を緩めていた。それは彼女にしかわからない些細なものだった。
その娘が泣いている。
目を閉じ、口を紡いで。瞼の右端から一擲の涙を流していた。娘を抱いている腕に必要以上の力が入る。
これはよくないものだ。と彼女は感じた。それは彼女の経験を積んだ灰ゴブリンの精霊士としての側面と、族長の妻としての側面、何より母親としての何かが彼女に囁く。
よくない事が起きていると。
彼女にはまるで娘が何かに怯えているように見えた。
幼く鋭く、そして賢い娘はそれに怯えつつ、それに見つからないように静かに涙を流しているのではないかとは思わずにはいられなかった。
ふと視線を感じる。それは他の彼女の愛する息子達の視線だった。
末の弟は目をぱち…ぱち、とゆっくり瞬きをしながらこちらを見つめている。様子を見守るように瞬きを続ける。
彼女には心なしか末の息子の顔色が悪いように見えた。
自分によく似ている。と彼女は思った。そんな自分似の末の息子に対して、ゆっくりと笑顔を作り笑ってみせる。
末の息子もそれにつられて少しだけ表情を緩めた。
それとは対照的に一切の瞬きをせずにこちらをじっと見つめている視線は兄のものだった。彼女は一瞬、夫に見つめられているのかと本気で思った。
睨みつけられているのではないかと間違える程強い視線。
夫から渡された深緑の首飾りをつけた長男は、まるで若い頃の夫がそのままそこにいるようだった。
あと数年もすれば夫の生き写しのようになるのではないかと思う。
それほどに夫似の息子だった。その息子が彼女達に近づく。ゆっくりと伸ばした手は腕に抱いた妹に向かい静かに流れるその涙を人差し指で掬いあげる。
夫以外の誰よりも大きな掌を広げて、彼女の腕の中に抱かれている娘の頭をゆっくりと、撫でた。
「恐れるな。」
撫でる手よりもゆっくりと、短く息子が語りかける。
彼女の口が小さく開いた。
妹は瞼を開き、息子の金色の目を見つめると、眩しそうに目を細めた。そしてまた瞼をとじる。今度は涙を流さずに代わりに一定のリズムで寝息が流れ始めた。
いつのまにか彼女の腕から不必要な力は抜けていた。ゆりかごのように柔らかく包まれた末の娘の寝息が地下の礼拝所に静かに染み渡っていく。
末の息子はその様子を見ていた。
そして思う。自分の兄こそが次の族長にふさわしいと。兄や父の事を思うと臆病な自分にも何故か力が湧いてくる。
2人の助けに、力になりたい。
その感情にどのような名前がついているのかは末の息子は知らなかった。自分にできることはないのだろうか。
ふと、部屋の中央に位置する石碑が視界に入る。
緑色の淡い光に照らされた、一族の宝。偉大なる精霊の依り代。彼らの力の源。末の息子はふとそれに向かい石碑の正面に片膝をつき、祈る。
不思議なことにその姿は人間と同様に掌を胸の前で組んだものだった。精霊への正しい語りかけ方はまだ習っていない。
このやり方が正しいかもわからない。だが彼が心から行う祈りの所作はこれだった。
家族全員が弟を見つめていた。
地下室を照らす緑色の光が強い。気づけば石碑の周りに緑色の光が渦巻くように不自然な照らされ方をしていた。
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