第25話 我流

 ひでり神の針千本ノックは後半に突入した。すでに夢童の意識は朦朧として、ボールに向かって歩く、つかむ、投げるの三つを反復するゾンビと化している。


「573球目!」


 打球はフライになって、彼の守る位置に落ちてくる。彼は打球を目で追うが、足が一歩も動かない。打球が頭の皿に直撃する。


 パリン!


 皿にヒビが入る。夢童は白目をむいて、千鳥足からの横転だ。未巳子が慌てて彼の元へ駆け寄る。


「夢童様、大丈夫ですか! 夢童様?」


 半開きの口ばしは虫の息である。彼女が彼の口ばしに息を吹き込むが、一向に回復の兆しを見せない。


「おいおいおい。ここでゲームセットかぁ?」

「お待ち下さい、すぐ復活させます!」


 とは言うものの、有効な手立ては見つからない。未巳子がおどおどとした表情で辺りを見回していると、バケツを持った朱美が視界に入る。


「未巳子ちゃん、ちょっとどいてて」


 彼女は夢童に水をぶっかける。水を得ると、皿は元に戻り、彼はしゅたっと起き上がる。ボールを投げ返して、グローブを拳で叩く。


「よっしゃ! バッチコーイ!」


 未巳子は元気になった彼を横目に見ながら、川岸へ戻る。彼女は何度も頭を下げて礼を言う。


「先ほどはありがとうございます、ありがとうございます!」

「どういたしまして。それにしても、夢童君は凄いよね。慣れない野球で、ここまで頑張るんだから」

「はい。その強さが、オリンピック代表につながっているんですね」


 未巳子は彼の姿にうっとりしている。彼も時折、彼女にピースサインを向けて「大丈夫」とアピールする。朱美は二人の恋模様を形容する言葉を、たくさんメモ帳に書いている。叶実は見るのに飽きて、ポテチをほおばっている。






「その意気だ、そのイキィ! 次ぃ、612球目!」


 打球はワンバウンドで夢童のグローブに入る。夢童はボールをつかんで、ひでり神へ投げ返そうとする。


「グッ、ワァァァ!!」



 彼の体の動きがロボットのようにぎくしゃくして、ボールを地面に叩きつけてしまう。全身が筋肉痛で、もうまともに動けなかった。


「チクショー! 水泳ならまだまだいけるのに」


 彼はひざをついて悔しがる。ひでり神は伏し目がちに「お前もダメか」と言って、バットを置こうとする。


「夢童様、今から力を送ります!」


 未巳子が川に手を入れると、たちまちにして河童に戻っていく。彼女は川の水を飲んで、口ばしの中でよくかき混ぜてから、水を球状のチューインガムのように出す。それが彼女の口ばしをシャボン玉のように離れて、夢童を包み込んだ。


「おっ、これは楽だ」

「これが、私の得意技の水玉舞踏(すいぎょくぶとう)です。泳ぐようにして、ボールをお捕り下さい!」


 彼は水を得た魚のごとく、動きが華麗に機敏になる。ひでり神の意地悪な打球を、上下左右前後に捕っていく。


「そんな技があるとは知らなんだ。だが、我の打球は甘くないぞ。その水玉ごと裂いてやろう」


 ひでり神は機嫌を良くして、テンポよくどんどん打っていく。夢童は速い打球をクロール、遅い打球を平泳ぎ、フライを背泳ぎ、後ろにそらしたボールをバタフライで、臨機応変に捕っていく。


「あんな技があったら、最初から使えば良かったんじゃ……」

「すみません。この技は結構な生命力を使うので、長時間はもたないんです。朱美さん、私を支えてくれますか?」


 よろめいた彼女を朱美ががっちりつかんで、まっすぐに立たせる。どうやら彼女が倒れると、あの水玉は消えるらしい。


「わかったわ。最後まで支えてみせる」

「あたしも頑張るー」


 朱美が右手、叶実が左手を持つと、未巳子は捕まった宇宙人(西ドイツのエイプリルフールネタ)のような姿勢になる。未巳子は恥ずかしくて赤面するが、夢童の水玉だけを見据えて、念を込め続ける。






「最後だ! 1000球目!」


 針千本ノックのラストは、意外にも素直なライナーだ。夢童はクロールで打球を捕って、黄ばんだ歯を見せて笑う。


 すでに河川敷は暗くなり、街の電灯が彼らを照らす。朱美と叶実は拍手で、彼の奮闘を称えた。未巳子はしゃがんで一息ついている。


「よくやった。これにて、我の数百年の怒りが発散された。そのお礼に、明日はゲリラ豪雨をあげようぞ」

「ハァハァ、選考会より疲れたぁ」


 夢童は片ひざをついて、荒い呼吸をしている。


未巳子は蛇行した足取りで彼に近づき、「凄いです、夢童様!」と、彼の左手を包み込むように握る。左手は砂や石で汚れて、傷だらけのムドウだ。


「まったく。お前のせいだからな、クソガッパ!」

「はい、私のせいです! ごめんなさいっ!」


 彼女は悪びれる様子もなく、満面の笑みで頭を下げる。


「おいコラ! 全然反省してねぇんだな!」


 若い河童が言い争っている様子を、ひでり神は腕を組んでみている。


「ふむぅ。我も相方の柱がほしいぞ」

「いつか相性の良い神様に出会えますよ、多分。さぁ、封印の地まで帰りましょう」

「約束は守るぞ。行くとするか」


 ひでり神たちは、仕事帰りのケイトの車に乗って、群馬の山奥まで行った。ひでり神が封印されるまで、ケイトがドライブスルーで出会った女性を襲う、叶実がレポートの提出期限を思い出して狂う、朱美の腕時計が中国製の偽ブランド物と発覚するなどのトラブルが起きたが、別の機会にお話ししよう。




 さて、河川敷に残ったカッパップルは人目をはばからずにいちゃいちゃしていた。


「これで、明日から元に戻れるかー、長かったなぁ」

「はい! オリンピックに向けて頑張れますよ!」


 未巳子は両の拳を胸の前にかかげる。夢童は彼女を見て、久方ぶりの胸の高鳴りを感じる。


「なぁ。こんなこと言うのもなんだけど、えっと、キスしていいか?」

「えっ? ああ、もちろん、いつでも心の準備はできてますよ」


 未巳子は動揺の色を隠せない。頭の皿が震度5強で揺れている。


「じゃ、ありがとうのキスで」


 二匹はそっと口ばしを重ねる。甘いチョコが脳内を満たして、恋の花火が夜空に開花した。


※※※


オリンピック水泳代表の河部夢童

一般女性との熱愛発覚!


文:早良朱美


(前略)二人は腕を組みながら、スーパー・パサデへ入って行った。数十分後、キュウリやレタスなどの野菜を大量購入した二人が出てくる。自転車に乗っても、二人は終始笑顔で会話していた。河部選手の関係者は、彼女について「結婚を前提にお付き合いしているそうです」と語っている。


 オリンピックでメダルが期待される河部選手。恋愛の方も金メダルを獲れるかどうか、今後の動向に目が離せない。

(週刊平常7月3日号より抜粋)


(河童の婿入り編終わり)

(完)

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