第2話 血痕

 早良朱美が書いたケイトの記事は大好評で、能面編集長がご満悦の表情を浮かべたほどだ。さらにケイトが出演するドラマの紹介記事を任され、彼女はトップ記者としての道を歩み始めていた。


「早良さん、、いいなぁ。ウメテレビのスタジオに行けて」

「あたしも政治家のおっさんより、ケイト様に会いたいわ」


 ハコフグとナポレオンフィッシュがこぞって朱美に話しかける。彼女は浮かない顔をすぐに営業スマイルにかけて、「ありがとう。頑張りますね」の定型文で返した。


 彼女はいまだに素直に喜べずにいる。ケイトの正体が何なのか、ずっと気になっていたからだ。


 彼女の首筋には、2つの傷跡が残っている。ケイトの犬歯にかまれたことをハッキリ覚えている。あの瞬間は、時計の針がゆっくり動き、注射針より激しい痛みと恐怖を感じられた。そして、血を吸われて気が遠のいていく虚脱感、けっして夢ではない、本物の現実だ。


 ケイトの容姿は吸血鬼に似ているが、そんなモンスターがこの世にいるのか、彼女は自問自答を鏡の自分に向かって繰り返す。その答えを探るため、彼女は単身で彼に接近することに決めた。




 ウメテレビ第1スタジオでは、ドラマ『ポイ捨て禁止!』の撮影が行われていた。今日は、ラーメンの屋台でケイトが演じる男が、女性を口説く場面の撮影をするはずだった。ところが――。


「ちょっと叶実(かなみ)ちゃーん。何やってんのよぉー」


 監督が折尾(おりお)叶実の頭をメガホンで叩く。彼女は舌でラーメンの汁をぬぐいながら、ぺこりと頭を下げる。彼女の周りには、空のラーメン杯や食べかすつきの箸が転がっている。


「ごめんなさい。ものすごくおなか空いてたんで」

「どうすんのよぉ、これぇ。君ぃ弁償できんの、払えんのー?」


 監督は屋台のテーブルをメガホンで叩きながら、彼女を睨む。他のスタッフはうつむいたり、スマホをいじったりして我関せずの姿勢を取る。彼女があまりにも猛獣のごとくむさぼっていたので、誰も止められなかったのだ。彼女自身は答えに困ったまま、ずっとうつむういている。


「大丈夫ですよ、監督。僕が代わりのラーメンを注文しますから」

「えっ? ケイト君、いいのかい?」

「監督はお気になさらず。折尾さん、さっきの食べっぷりを演技で見せたら、許してあげるよ」

「わっ、わぁ、ありがとう、ありがとう!」


 ケイトの機転で、一瞬にしてスタジオが和やかになった。その中で、一人・朱美だけが、けげんな表情を浮かべていた。彼女は、彼の爽やかな笑顔の裏にいる悪魔を知っている。おそらく、その牙は、大食い女子大生を狙うであろう。



 この日のドラマ撮影は無事に終了した。監督がケイトの背中を何べんもメガホンで叩いてほめている。折尾はもじもじしながら、ケイトに話しかける。


「あっ、あのぉ、さっきのお礼に美味しい丼屋に行きたい、おごらせていただきたいのですけど……」

「そんなのいいんですよ、マジで」

「いえ。もう、すぐにでも恩返しさせてださい。お願いします!」


 メタルバンドのように激しく頭を上げ下げする彼女の熱意に押され、ケイトは了承する。


「ああ、わかったよ、わかりました。じゃあ、今から一緒に行きましょうか。ねぇ」


 彼女は大きく口を開けて満面の喜びを見せる。監督は細目でうらやむように2人を見つめる。金髪のイケメンワイティーバーと銀髪のキュートな読者モデルJDはつり合いが取れて、黄金比率に見えた。


 2人がスタジオを出て行くときに、1人の記者が声をかける。


「ケイトさん、お疲れ様です! 今回も良い記事を書かせていただきます!」

「うん。よろしくね」


 彼は彗星のウインクをして、その場を去ろうとする。朱美は彼の背中を凝視して、この前の出来事の罪悪感はないのかと憤(いきどお)る。不祥事を起こしてきた連中をたくさん見てきたが、彼は動揺の「ど」すら見せなかった。


 そんな彼の正体を暴くために、朱美はある丸秘アイテムを用意していた。彼女は口角を上げて、「その時」が来るのを楽しみにしている。



 ケイトは、折尾の紹介で、カツ丼に定評のある飲食店に入る。3時頃に入ったので、他の客は老夫婦だけだ。油を揚げる音と鶏肉の臭みが食欲を刺激する。


「何名様ですか?」

「あっ、2名でーす」


 彼女は写真撮影のピースサインと笑顔を見せてから、流れるようにカウンター席に座る。ケイトは彼女の左隣に座り、おしぼりで手を丁寧に拭き始める。


「ここのおススメは?」

「特上カツ丼です。あと、このきつねうどんも一緒に食べると美味しいかも。もしくは油そば。あっ、この昭和レトロも」


 彼女のメニュー表を差す指が止まらない。


「じゃあ、特上カツ丼セット、きつねうどんで」

「あたしは特上カツ丼超盛と油そば特盛で!」

「ちょ、超盛?」

「えへ。全力で演技したらお腹空いちゃって」


 彼女のきゃしゃな体から想像できない大食いぶりに、ケイトは今後の計画を慎重に練り直し始める。


 おもむろに、彼女が鼻を動かし、彼の顔をまじまじと見つめる。


「おや、どうしたのかい?」

「いえ。たしたことじゃないけど、故郷の香りがケイトさんからやってきたので」

「ああね。ラベンダーの香水つけてるのバレたか。微量なのによく気づいたね」

「あっ、やっぱり! ケイトさんは本当に匂いとか身だしなみとか、すごくきっちりされていいですね。あたしなんか、すぐテキトーにしがちだから、うらやましい……」


 ケイトははじけるソーダの笑みを浮かべて、彼女の顔を指差す。


「テキトーでその出来なら、本気でやればもっと可愛くなるってことだよね。もったいないなぁ」


 彼女は甘い誘惑に言葉を失い、赤面を隠そうと超盛カツ丼に顔をうずめる。超盛は人の顔より大きいサイズで、ケイトには肉食獣のエサのように見えた。彼はこっそり油そばに例の薬をたらして、何食わぬ顔でカツ丼を食べ始める。




 ご飯を食べ終えた叶実は足取りがおぼつかなくなる。

「危なっかしいな。少し僕の家で休んでいくかい?」

「あわ、すみません。いつもはこうじゃないのに……」


 彼女はビール10杯飲んだ時のように、まっすぐ歩けなくなっている。彼女は彼に体を支えてもらい、何とかタクシーに乗りこむ。目に映るもの全てが、子どもの落書きみたくグニャグニャになり、言葉を発する気力がない。


 タクシーを降りて、エレベーターに乗って、彼の部屋のソファに横たわるまで、彼女の意識は宙ぶらりんのままだった。


「落ち着いたら、このケーキでも食べるかい?」

「あっ、はりがとふ」


 彼女はうつろな目とろれつの回らない舌で返事をする。彼は口元を押さえて、彼女の体をしげしげと見つめる。きゃしゃな読者モデルと思っていたが、太ももの肉が陸上選手並みにパンパンだ。腕回りも程よく脂が乗っている。自分が肉食モンスターなら必ず頂いていただろうと、彼は思う。


 彼は舌なめずりして、牙を彼女の首筋に近づける。この娘こそ求めていた血の持ち主に違いないと、胸のドラムビートを乱然と刻む。


 彼が彼女にかみつけば、逆にかみつかれた。


「いってぇー!」


 彼はすっとんきょうな声を上げて、床に倒れこむ。鼻がヒリヒリして、コウモリ鼻に変形している。


「あだー。やっぱ、東京さドラキュラいるんだ。おっかねぇさぁ、おい」

「まっ、まさか、オオカミ女?」


 ケイトはまばたきを激しく繰り返す。彼は深呼吸を始めて、やっと赤く腫れた鼻以外を元に戻す。


「ふぅ。獣の血を飲まなかっただけ、幸運と思わねばな」

「獣の血ぃ? あたしを動物扱いすんな、このコウモリ傘男!」

「はぁ? 貴様、この僕を愚弄する気か!」


 2人は龍と虎のごとく熾烈(しれつ)な口喧嘩を始める。そのやり取りを盗聴していた朱美は、モンスター2匹の登場によって、頭の中が通勤ラッシュアワーに襲われていたのだ。


(続)

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