第35話 愚かな恋心

 ラキスが服を纏うのを見届け、ドアを開けたシアは、そこにいた人物に驚いて、一歩、足を引いた。

 宿屋の娘、ミリラナが真剣な面持ちで立っていた。


(ザストとの一件が、もう伝わったのか)

 乱暴な真似はしたくはないが……。

 当て身を喰らわせようと身構えたシアの指を、ミリラナが強引に取り、両掌で挟んだ。


「私、迷ったけど……でもやっぱり諦めきれないっ」

 豊かな胸の前で、シアの指を握る。

「だって。やっぱり、好きなんだもんっ」

 振り払おうとした瞬間、ミリラナが叫んだ。

「……は?」

「あなたのことが好き。愛してるわっ」

 潤んだ眼差しで愛の告白を受け、シアは硬直した。


(そうか……。ザストは彼女が好きで……。彼女はわたしに好意を寄せていて……だから、彼はわたしを殺そうとした……のか?)

 恋は時に人を愚かにさせる。

 恋情に周りが見えなくなり、思い込んで、突っ走る。

 恋愛経験……いや恋という感情すら抱いたことがないシアには理解不能だが、恋というものは、冷静さを失わせるらしい。


 ギルドの報酬を女に貢ぎ、それだけでは飽きたらずギルドから借金。しかし貢いでいた女に逃げられ、自らもギルドから逃げ、制裁を受けた男がいたのを思い出した。

 他人事のように恋愛とは厄介なものなのだな、と思っていたのだが、今はそれが身に染みる。

 いや、今だって他人事なのだが……。


(最初から……女だと打ち明けていればよかった)


 女性に言い寄られたことは、これが初めてではない。

 いい男ね、好みだわ、今晩どう?、などと言われたら、いや、と強ばった顔で誤魔化した。大抵は、色事に長けた年上の女性だったので、その気がないと知ると、あっさり引いた。

 しつこかったり、相手の本気が見えた場合は、女であることを打ち明けた。

 けれどもミリラナから、その手の誘いは受けなかった。

 『好き』と言われるのも初めてだ。態度は好意的だったが、人当たりの良い、人懐っこい娘くらいにしか思っていなかった。


(わざわざ女であることを主張するのは、自意識過剰だろう……いや……女なのは事実だから、男に間違われたら、すぐに誤解を解くべきなのか)

 女だと主張しなければ、女だと認めて貰えない。

 今更ではあるが、その事実に、少し悲しくなった。


「いや……ミリラナ……実は」

「ミーナって呼んで」

 甘い声に、シアの顔が引き攣る。

「何やってる?急げ、黙れって。おれを叱ったくせに、お前もお喋りしてるじゃないかっ」

 背後でラキスが喚いた。


「あ、あなた……」

 ミリラナの紅潮していた頬が、青くなる。

「そ、そう……そういうこと……。そ、そういうことだったのね……。……き、綺麗な人だわ……。で、でも、男。男だわ。子どもを産めない男よ……今はいいかも知れない……けど、将来的には、女の方がよいに決まってる……」

「い、いや……あの」

「女の方がいいに決まってるわけがないっ。黙れ、メス」

「メ、メス、ですってっ」

「雌には雌の、雄には雄の役割があるのだ。どちらも優れているし、どちらも優れていない。ただ俺が優れているだけだ。お前のような人間の雌とは比べものにならないくらいに」

「子どもも産めないクセにっ。偉ぶらないでっ」

「おれは子どもは産めない。いや、産まないんだっ。子どもを産むのは凄い。生命の神秘だ。だから何だ?大事なのはおれはお前なんかより、ずっと偉いって事実だっ」

「言ってることわかんないわよっ。あんた馬鹿でしょっ」

「おれは馬鹿じゃないっ!おれを馬鹿だって言う奴はみんな馬鹿だ。つまりはお前は、とてつもない馬鹿で、阿呆だってことだっ」

「な、何ですってっ」

 始まった言い合いに、シアは目眩を起こし掛けた。


「二人とも、やめてくれ……」

「おれに喋るなって怒ったんだ。こいつのことも怒れよ!」

「私の方が絶対、あなたを幸せにできるっ。私を選んで」

 弱々しく呟くと、二人から睨まれた。


 シアは溜め息を吐き、指を握っているミリラナの手に、もう一方の手を重ねた。

 期待に瞳を輝かせたミリラナの指を解かせる。

「すまない。君の想いに応えることできない」

 ミリラナの顔が強ばる。


「……わ、わたしが女だから?男の方が好きだから?そんなの、間違ってるわ。この人はあなたに相応しくない」

「いや……その」

 シアはミリラナの細い指を、自身の胸元に触れさせた。

 ミリラナは訝しみ、シアを見上げる。

「……なに?」

「いや……」


(ささやかな胸では……女だと気づいてもらえない、か……)

 惨めな気持ちになり、そっと彼女の指を離した。


「……相応しくないのはわたしだ。君に相応しい人は他にいる」

「そんなの、いないわ」

「ザストは君が好きだと言っていた。君のためなら全てを捨てても構わない。それくらい君のことが好きだと……」

「ザストが?かっこいいし、気さくだし……彼はいい人だわ。けど、わたしはあなたが好きなの。……って、どうして、ザストのこと知っているの?あの人、あなたに何か言ったの?彼に遠慮しているの?それとも……あの人、腕の立つらしいから……わたしに近づくなって脅されたの?これだから、賞金稼ぎは……。いい人だけど、賞金稼ぎはごめんだわ。大義のない乱暴者の集団なんだから」

「わたしも賞金稼ぎだ」

 口にしてから正確には『賞金稼ぎだった』だと、思う。

 けれど辞めると決めてから時間も経っていないし、ギルドの処分を正式に受けたわけでもない。まあいいか、と言い直さないことにした。

「大義のない、乱暴者だ。わたしは」

 驚いて見上げるミリラナに言う。

「そうだ。お前は乱暴者だ」

 背後から呟きが聞こえてきたが、無視した。


「でも、でも、あなたは……」

「ザストを斬った」

「え?」

「君がわたしに騙されている。そう疑った彼に、先刻、襲われた。だから斬った」

「そ、そんな」

 ミリラナの唇が震えた。

 そして怯えるように、後退り、シアから距離を置く。


「心配しなくとも、ザストの命に別状はない。けれどあの怪我では賞金稼ぎとしてやってはいけないだろう。わたしが口を出すことじゃないが、彼は君のために命を賭けた……そのことを忘れないで欲しい」

 ザストがミリラナの恋心ゆえに無謀な行いをしたからといって、彼女に咎はない。彼が勝手にしたことだ。

 白々しいことを言ったかな、と思うが、ミリラナの心には響いたらしい。


「馬鹿な人……」

 吐息混じりに言って、顔を仰いだ。

「おれは馬鹿じゃないっ」

 もう一人の声は無視する。

 ミリラナの耳にも届いてはいないようだ。


 賞金稼ぎだと知り、失望し――ザストを斬ったシアに、恋心を抱けなくなった。そして、自分のために愚かな行為に走ったザストを哀れむと同時に、その深い愛情を知り、感じ入っている。

 そうだといい。そうならば、ザストを斬った罪悪感も多少は軽くなる気がした。


 願いながら、シアは背後にいるラキスの腕を引っ張る。

 ミリラナの前を通り、宿の階段を足早に下りる。

 彼女はぼんやりと立ったままで、シアに視線すら向けなかった。

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