第22話 草

「うぐ……うう……お前……うう、お前……」

 問題を先送りにするだけだとわかってはいたが、心のどこかで、いなくなってくれたらな、とも思っていた。

 縛ったのは自分なので、いるのは当然だったが、寝台にいるラキスを見て、シアは頭が痛くなった。


「……悪かった……」

「あ、謝ったって……許さ、ないっ……謝ったっ、て、兄さ……生き返らない……お前が死ぬまでが、ふ、復讐なんだっ……」

「いや……そうではなくて」


 赤く、腫れた目元を見て、咄嗟に謝罪が口から出ただけである。

 子どもならともかく……姿は自分と同じ年頃の若者だ。

 女でもない。いい年した青年が号泣するさまに、シアはたじろぎ、ひぐ、ひぐ、と嘔吐く青年を前に途方に暮れた。

(紐を解いてやろうか……)

 何だが弱いもの虐めしているみたいだ。

 シアは逡巡の後、彼の手首の縛りを解いた。


「……っ!」

「ひっ!」

 腕が自由になるなり、ラキスはシアの髪の毛を引っ張る。

 シアは彼の腕を引きはがし、解いたばかりの紐で手首をひとつに括った。


「痛いっ!」

 叫ぶラキスの指には黒髪が十本ほど絡まっている。痛いのはこっちの方である。


「泣いているなら、泣いているなりの態度があるだろう?」

 油断させるための嘘泣きではない。本気で泣いていて、主導権はこちらにあるというのに、なぜ弱々しい態度を取らないのか。溜め息混じりにシアは問う。


「泣いてないっ!」

「泣いているじゃないか。わたしが出て行ってからずっと泣いていたのだろう?頬が腫れている」

「このままおれを縛っておいて。このまま、おれはずっとここに縛られたままで。ずっと、ずっと。干涸らびるまでここにいるって。怖くて、怖くて。……そんなおれの気持ちがお前にわかるかっ!」

「だから……怖くて、泣いていたのだろ?」

「違うっ!泣いてなどいないっ!う、飢死って苦しいに決まっている。どれくらい苦しい?きっと、尻尾斬られたのより、痛いに決まっている。だって、今もお腹、痛いのに。それがずっとずっと続くんだぞっ!そんなおれの恐怖がお前にわかるものかっ」

「……だから、餓死する不安で、泣いていたのだろう……」

「泣いてないっ……とういうか、やはり餓死させるつもりなのだなっ……うう、許せない……許さないからな……馬鹿、阿呆、死ね、死ね」

 びくびく震えながら、それでもラキスは悪態を吐く。


 餓死させるつもりはなかった。宿に迷惑も掛かる。

 だが毟られ、乱れた髪を手櫛で整えながら、罵声を聞き続けていると、餓死させてやりたい誘惑が芽生えてくる。

 彼の悪態と腹の虫が合唱し始めて、シアの腹の虫は治った。


「腹が減っているのか?わたしはお前を餓死させるつもりはない」

「腹なんてちっとも減ってない」

「ぐーぐー言っているが」

「お前のいびきだ」

「…………腹が減っているなら、食料をやるつもりだったが。本当に何も食べなくていいんだな?」

「お、お前、餓死させるつもりはないって言ったっ!」

「腹、減っていないのだろ?」

「満腹だが……くれるっていうんなら、食べてやってもいい……」

 ちら、ちらと、期待の籠もった視線を向け、ラキスは言う。

 その間も、ぐー、ぎゅるる、とラキスの腹の虫は盛大に鳴いていた。


(欲しいなら欲しいと。怖くて泣いていたのだと、正直に言えばいいのに)


 正午を過ぎていて、朝から何も口に入れていないシアも腹が空いていた。自分だけ食べるのは心苦しい。

 生意気な態度に目を瞑り、食料を与えることにした。

 階下へ降り、手持ち無沙汰にしていたミリラナに声を掛け、二人分の食事を用意してもらった。


 『こちらで食べたら?』『持って行きます』と、気を配る彼女の申し出を丁寧に断り、部屋へと戻る。

 シアが手にした食料を見たラキスの第一声は、『こんなもの食えるか』だった。


「我が侭を言うな。腹が減っているなら何でもいいだろ」

軽めでよいと言ったので、パンと野菜と玉子の炒め物だ。贅沢な献立ではなかったが、量はある。


「腹なんて減ってないっ!……それにおれは人間じゃないんだ。人間の食べ物は食べられないっ!」

「……お前が妖獣だとして……。何なら食べられるんだ?犬だってパンを食べるぞ」

「犬の姿に似ているが犬じゃないっ!犬のエサとおれのエサ、違うっ!」

「なら何を……肉……まさか人肉じゃないだろうな?」


 妖獣の主食が何なのかは知らないが、妖獣に喰われただろう欠損のある遺体なら何度か見たことがあった。

 空腹なら食しもするのだろう。野犬が人を食うことだってあるし、飢渇に苦しんだ挙げ句、人が人を食すことだってある。しかし好んで食べているとなると話は別だ。

 肉の塊になった母が脳裏を掠め、シアは顔を歪ませた。


「肉なんて気持ち悪くて食えるかっ!おれは草しか食わないっ!」

「……草」

 意外な答えが返ってきて、シアは彼の言う草と、自分の知っている草は違うのでは、と思った。

「草っ!草を食わせろっ」

 ラキスは唾を飛ばしながら怒鳴る。

「草というのは……道に生えてる?…………野菜のことか?」

「緑の草だ!」

「これでいいのか……」

 寝台に横たわるラキスに見えるよう、シアは皿に盛られた炒め物からキャベツを指で摘んだ。

「新鮮なのがいいっ。それに……黄色いの、混じってる……」

 キャベツは卵と一緒に炒められていた。

「黄色いのって……」

「どっか行って、摘んで来いよっ!緑の草っ!」

「妖獣は雑草が主食なのか……?」

「知るかっ!おれは草を食べる。草しか食べないっ!でもお前のことはぐちゃぐちゃに噛む。だけどお前みたいなもん、食えるかっ!かみ砕くだけさ」

 だから早くしろ馬鹿、と急かされて、シアは釈然としないまま部屋を出た。

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