第3話逃亡

 待ち合わせの喫茶店。時刻は二十時を回った頃。紅茶を頼んだが、落ち着かず一口も口をつけられずにいた。窓の外はもう暗くなり、街頭の灯りと、ヘッドライトを付けた車が走っている。店先に一台のバンが止まった。ライトで眩しく運転席は見えない。


 ライトを消し降りて来たのは、私とさほど変わらない二十代後半の男。冬でもないのにニット帽を被り、黒いシャツとパンツを履いた男だ。顔がよく見えない。通り過ぎたかと思えば、喫茶店のドアが開きカウベルが鳴る。こちらに近づいた瞬間、誰だか分かった。


「迎えに来た。詳細は車で話そう。ここじゃ目立つ」


 惚けた私を余所に手を引き、勘定を済ませ、車に乗るように誘導する。


「手を離して! あなた……なの? 黒ずくめの男って……」


 私の問いには答えず、黙って助手席の扉を開けた男。そうだ。この男は元カレのさとし


「さぁ、乗って、話はそれからにしよう」


 低い声だが、優しい昔のままの声。私はその声に助手席に乗った。車はどこへ向かうのか走り出した。夜の交差点を渡り、ぐんぐんスピードを上げて高速へと乗った。


「どこに行くの?」

「…………来てくれれば分かる」

「何故あなたなの? 私を助けたいって、あなたなのね? あの黒ずくめの男は。何となく気づいていたけど……」

「……ああ」

「あの女性は、誰なの? 何故こんな事したの?」

「質問がいっぱいだな?」

「そりゃそうなるわよっ。私は主人を突き飛ばしたのよ。死んでるかも」


 聡は黙って車を運転していた。それに腹立たしさを感じ、私の言葉は納まらない。


「私、どうしたらいい? 警察に行かなきゃ……」

「ダメだ。人生を変えよう! 僕と一緒に……」

「えっ? 何言ってるの? 全く分からない! あの女性はどうなったのよ! あの女性は、あなたとどういう関係なの?」


 聡は唇を噛むと、飲み込むように言葉を吐いた。妻だと……。


「えっ!?」


 その時、男の携帯に『you got a mail』着信音が鳴った。聡はハンドルを握りながら携帯を確認し、返事を打って、またダッシュボードに携帯を置く。今度は私の携帯に着信の見知らぬ番号が表示された。


「出ないほうがいい! どこにいるかバレると困る!」

「でも……もし、病院からだったら……」


 着信音は鳴ったまま。着信音が狭い車内に鳴り響く。出るか出ないか迷いに迷い、聡の 言う通りだと、切れるまで待った。電話が切れた後、一通のメールが着信した。


 =私の携帯着信一通目=


『ひろみさん! 哲也さんが、電車に跳ねられて病院に運ばれたのよ。今どこなの? 連絡下さる?』


 義母からのメールだった。電話をして来ないのは、私の声が聞きたくないからだと感じた。義母は元々、私の事を快く思っていない。


「返信はしないように!」再度聡に念を押された。


 返信しないまま、車は他府県に入った。高速インターから随分飛ばして来た。いつの間にかウトウトして、疲れきった私は眠っていたようだった。気がつけば、夜の何処かのサービスエリアに車は停められていた。時刻は午後十一時半を回っていた。聡は助手席に私一人を残して、トイレにでも行ったのだろうと思った。思わず、手に取っていた携帯にそれ以外に着信が無いか確認した。一件着信メールが届いていた。


=私の携帯着信二通目=


『件名無し』

『地獄に堕ちろ! くそ女!』


 見知らぬアドレス……。このloveなどと付けるアドレスは多分あの女性なのかもしれないが、分からなかった。そのメールに恐怖を感じた。そうだ。私は地獄に堕ちても仕方が無い……。そうだ。主人を突き飛ばしたのだから……。


 聡がいない。携帯はダッシュボードに置いたまま、気になり、聡の携帯を見た。着信が三通あった。


 =聡の携帯着信一通目=


『件名無し』

『聡、何時頃こちらに着く?』


=聡の携帯着信二通目=


『件名無し』

『嫁はちゃんと処理したのか?』


……えっ!? どういう意味? 私はそのメールに疑念を感じた。続けて三通目に目を通した。


 =聡の携帯着信三通目=


『桂木の嫁と向かっているのか? 準備は整ってある。早く着くよう祈る』


 誰? 誰からのメール? アドレスには名前は無い。リターンメールを確認しようとした時、聡が車の側面に現れて扉を開けた。慌てて、ダッシュボードに携帯を戻す。運転席に乗り込んだ聡は、一息ついて私に告げた。


「見たのか!?」


 恐る恐る私は、首を横に振った。また今度は聡の低い声が更に低く私に訴えかけた。


「見たんだな!」聡の目つきが鋭くなる。


 その豹変した表情に、頷くしか無かった。その対応に鋭い目つきをしながら右腕を私の肩にポンと置いた。


「もう覚悟を決めろ。君はこれから新しい人生をスタートさせるんだ。俺と一緒に」


 キツく肩を押さえつけられて、恐怖を感じた。これ以上、嗅ぎ回るなと言わんばかりの行為。しかし私はその腕をはね除け、訴えかけた。


「教えて、何故あなたが今頃現れて、突然主人と、あなたの奥さんでしょ? あの女、あの女………」


 その続きを言おうとした瞬間、さっきのメールの文章を思い出した。もしかしたら、私も殺されるかも知れないと恐怖に陥り、身震いさせた。


「いやっ、いやっ! 降ろして、降りる!」


 叫んだ瞬間、ドアのロックが掛けられた。


「大人しくしろ。黙ってないとこっちも困る」

「嫌、いやあ、いやあ」


 足をバタバタとさせながら、ドアを叩き、何度も扉の開閉スイッチを押し引きする。バタバタさせた足がダッシュボードに当たった。

ダッシュボードが音を立てて開いた。そこには……。


 拳銃らしきものが一丁と、長細い電動ひげ剃りみたいなものが入っている。聡は、慌てふためく私を見ながら、そのダッシュボードケースに手を伸ばした。


 殺される。そう確信した瞬間。ひげ剃りみたいな物を取り出し、スイッチを押した。


 ひげ剃りに見えたその切っ先から電流が迸るのが見えた。


「こんなものは使いたく無い。大人しくして欲しい。俺は君を安全な場所に連れて行きたいんだ。頼む……」


 半ば強引とも思える行動だったが、そのスタンガンと言われるものは使われなかった。その言葉通り私は自分を取り戻す。そして車は、またサービスエリアから走り出し、山道の高速をウネウネと登っては降りる。

 ヘッドライトが一つしかない。私たちだけがこの道を進んでいた。窓の外を見ながら、惚けていると手に持っていた携帯が振動した。


 午前〇時丁度。


 =私の携帯着信三通目=


『哲也です。誕生日おめでとう!』


 えっ!? 何故? 主人から? まさか……生きてる……。そのメールに釘付けになった。


『今日は帰りが遅くなってごめん。実は君に伝えたい事がある。それはダメな夫だったという事。分かっていたかも知れないが、俺は不倫をしていた。そして今日、その不倫関係の女性とは別れてくるつもりだ。話が長引くかもしれない。その女性はヤクザの女性だからだ。無事帰って来れるかも分からない。だから君の幸せを祈る。ベッド脇のケースにプレゼントを入れておいた。これから必要なものだ。幸せを祈る』


 何て言うことなの? こっこれは……。

 このアドレスは夫のパソコンからだ。時間指定で送信されたと知った。そのメールを見た後、私は聡を凝視した。この男。昔から素性が知れないとは思ってはいたが……。


「何だ? どうかしたか?」


 その言葉を尻目に、ダッシュボードをいきなり開けて、拳銃を手に聡の方へ向けた。


「なっ、何をする」

「今すぐ停めなさい! じゃないと……」

「…………俺は君を助ける為にしてるんだぞ!」

「そんな言葉、もう信じられない。早く、停めなさい」


 聡は車を路肩に停めた。


「………何度も言うが、君には新しい人生が待っているんだ。だってそうだろう! ご主人を殺した。その行動にびっくりはしたが、俺も覚悟を決めて嫁を処理した……」

「処理!? 殺した……主人を?」

「ああ、ニュースで持ち切りだよ。○○線突き飛ばし事件ってね」

「…………」私は驚きのあまり、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「これから向かう場所で、君は戸籍も変えて、名前も変えて新しい人生を歩むんだ。その準備は整ってる。だから……」



◆◇◆◇◆◇◆◇



 風が、私の席に吹き込んでいる。山間の空気は冷たく、私の感情と似ている。長い髪が靡きながら、私は聡の方をずっと惚けながら見ていた。


 聡の額から、赤黒いものが頬を伝い流れ出している。窓が割れた。本物だった。だから聡は、慌てふためいていたのか……。

 引き金を一回引いた後、硝煙の匂いが車の中に充満しているが、私は何度もその引き金を引いた。だが、弾は出て来なかった。殺そうとしたのに、殺せない。聡は、ゆっくりと私の手に持たれている拳銃に、手をかけて呟いた。


「ごめん。一発だけなんだ。気が済んだかい?」


 優しい瞳で顔を近づける聡がいた。私の身体は気が抜けたようにシートに崩れ落ちた。聡は拳銃を持つと、運転席側のドアボードにそれを仕舞い、エンジンを掛け直す。風が車内に流れ込みながら、車はまた走り出した。何処へ向かうのか。


「準備は整っている……」


 その言葉が、何度も私の頭の中を駆け巡っていた。

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