Ⅰ. 第2話

「なるほどね」

 ここは、とある街にある宿屋の、やや広めのベッドの上。

 彼は上体を起こし、枕を背にして座り——だが衣服の類は身に着けていない——、一方の彼女は彼の様子を気にするふうでもなく、ドレスのスカートを大きく広げるようにして座っている。


 彼は、少し赤面する状態ながら、気を取り直す。

「単なる夢じゃないってわけね」


 突如として現れたこの女性の名はゼフィア。

 冥界の王女だという。

「受けてもらえるかしら、私の依頼」


 状況を観察できる冷静さが彼に生まれたところで、改めて見る。

 彼女は、月を象ったような飾りを耳と首元に付けていた。

 黒いドレスの胸元は開き気味で、細い鎖骨が目立つ。

 

 強い意志を感じる瞳が彼を見つめる。

 冷静さは簡単にどこかへいってしまいそうだった。


「えっ、そ、そりゃ……」

「でも、君の依頼はミラクル危険な香りがするな~」

 胸の内はそうでもないが、少し余裕ありげに笑ってみせる。


 ゼフィアが身を乗り出し、嫣然えんぜんとした唇が近づく。

「あら、あなたなら簡単よ」

 彼女の影が彼の顔にかかる。

「だって、私の選んだ、特別な人だもの」


 ゼフィアは浮かび上がり、黒いドレスが大輪のバラのように広がる。

 彼女は手を伸ばし、その指先が彼の頬を撫でるようにそっと触れ……

 姿は、消えた。

 まさしく、フッと居なくなった。

 だが、彼女が消えた場所から何か落ちてきた。

 それは、ゼフィアを思わせる、黒い石の嵌めこまれた指輪だった。



「どうかした?」

 ルーティブロンドがさらりと落ちてきて、その感触のくすぐったさで我に返る。

 不思議そうにこちらを見つめる瞳。

 未だ彼らは、裸体で横たわっていた。

 陽はまだ高くない。


 彼が答えないので不安に感じたのか、

「朝食は用意したほうがいいかしら?」と聞かれる。

 どうやら黒髪の彼女が居た間は、時間の流れが止まっていたと思って良さそうだ。


「あぁ」

「それと、もう少しゆっくりしていていいかな?」

 彼女にチップとしてダイヤモンドの粒の入った革袋を渡すと、すぐに朝食が運ばれてきた。


 まずは、やらなければいけない依頼があった。

 ゼフィアの件はその後だ。

 夢の場所は、おそらく、ここ冥界。

‟特別な人“

 ……もちろん、仕事の腕を買われたのだろうが、それでも誤解したかった。

 特に、彼女を愛しいと感じたほどのあの感覚に、珍しく心が躍っていた。



 本名はレスト。

 彼の両眼と同じようにあらゆる矛盾の集大成。

 繊細なようでゴツく、明るいようで暗く、大人のようで子どもで。

 彼の人生は手に入らないものばかり。

 そんな彼が選んだ仕事……

 それは、依頼暗殺だった。


 彼はやがて『D』と呼ばれるようになった。

 DとはDeath。

 彼がやめない限り、死はいつまでも纏わりつく。

 それは彼が死を望まない限り、永遠に続く……




「なんだ、また旅に出るのか?本当に落ち着きのない奴だな。」

「……で、今度はいつまでなんだ?」

 豪奢なソファを背景に、絵に描いたような王族。長兄の王子だ。


「兄上……オレ、もうここに戻る気はないんだ」

「何? どこへ行くつもりなんだ?」


 俺はただの旅人。

 実際、俺は迷惑な人間だ。


「もう飽きたんだよね。それに、こんな形式ばった堅苦しいの、疲れるんだよ」

「レスト、お前泣いて……?」


 声が震えてた? 兄上には隠しきれなかったけど、誤魔化して笑ってみせる。

「え? オレにはさ、もっと自由な広野ってのがしょうに合ってるんだよな。こんなとこに閉じ込められて一生終わらせんのイヤだからさ」

 たたみかけるように言葉を紡ぐ。もう自分が戻れないように。


「ま、兄上は立派な王様になって、父上に孝行してやってくれよ」

「おいっ、レスト‼ちょっと待……」

 兄の言葉の端まで聞かず、足早に部屋を出る。

 扉の閉まる音がやけに大きく響いた。


 城内にいれば、嫌でも聞こえてくる密やかな噂話。

「まぁ……三男のレスト様が……」

 俺が居れば、兄上の継ぐ王位に傷が付く。

 原因不明だが、生まれ落ちた時から俺の左眼は視力が皆無に等しい。

 見た目のせいか、常に気味の悪い噂の種だった。


 少年時代は歪んだ世界に閉じ込められて過ごし、根暗になる一方、

 なぜか軟派な性格になってしまった。


 問題改善能力の欠如? 確か、お抱え助言者カウンセラーが言ってたっけ。

 なんでもいい。どう思われても。

 自分の居場所がどこかにあるなら、それを探したい。



 少なくともそれは、城内ここにはないから。


「嫌なこと思い出しちまった……」

 レストはシガレットケースを出すと依頼人のところへ向かった。


 煙と一緒に心のおりが出ていくのを、どこか遠い目で見ながら。




 

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