Ⅰ.新たな依頼 第1話


 この香りはシナモン?

 夢は途切れた——離れて初めて夢と知ったのだが。

 緩慢で粛然とした朝を迎える予定だったのに、それを許さない誰かがいるらしい。

 あぁ、今朝は独りじゃなかったんだっけ。


「あなたも、……飲む?」

「いや」

 答えながら、彼はベッドに横たわったまま、シガレットケースを開いてその一つを取り出す。

 次の瞬間には、火のついた煙草は彼の唇に挟まれていた。

 その仕草を目の当たりにしたことで、彼女はつい聞いてしまった。


「あなた、あの『D』なんでしょう?」

 ルーティブロンドの長い髪をかき上げ、こちらを伺い見る瞳には少し恐れの色が見えた。

 彼女は、彼の言うところの”キレーなオネーサン”だ。

 余計な心配で、あの美しい瞳を曇らせてはいけない、と本能が訴える。


「まさか!ただの王族出の旅人だよ」

 事実だが、冗談に聞こえる。

 だが、彼女の瞳を輝かせた事は間違いない。


 昨夜、宿屋の受付でダイヤモンドの粒を幾つかカウンターに転がして見せたのを、彼女も見ていたはずだ。

 善良なこのオネーサンは、彼の容姿の他に、彼の持ち物にも興味があったと見える。


 でも、彼は言う。

「手に入らないものなんて山ほどあるよ」


 この小さな街から出たことがない彼女には理解できなかった。

 昨夜、宝石というものを生まれて初めて目にした。

 だが、価値は知っている。

 その美しい輝きを見て、それがあればどんな幸せも買えそうな気がした。


「あなたにそんな物ある?」

 彼は俯いたまま、静かに煙草を燻らせていた。


「どんなに俺が必要としていても、相手もそうだとは限らないし」

「切ないのね。それって……誰かのこと?」

「いや」

 そう言って、彼は初めて顔を上げた。

「夢の話だよ」


 そう、今朝見た夢、あれは……

 彼がそう思った途端、彼女の姿は消えた。


「その夢って、私のこと?だったら光栄ですけど」

 代わりに、美しい女性が彼の横に座っていた。

 瞳はルビー、まるでピジョンブラッドのように深紅のルビーを思わせる。

 黒いシルクのドレスに身を包み、濡れたような艶やかな黒い髪は、その青白い繊細な肌を際立だせていた。

 額には菱形の石のようなものが嵌め込まれ、何やら不思議な香りがする。


「嘘っ」

 思わず口を開けてしまい、煙草がぽろり。

 あ、あちっ、もえちゃう。

「一体、どっから……?」

 彼が驚いたのはこの登場のせいばかりではなかった。

 この女性こそ、先程の夢の登場人物。

「君……」

「薄情ね、人間って皆そうなの?」

 少し寂しそうにこちらを見つめながらも、そうは思ってないと分かる口ぶりと微笑。


「さっき、君の夢を見た……だから、これも夢かも……」

「変だよな、逢ったこともないのに夢見るなんて」

 それには答える義務はないとでもいうように押し黙ったままだが、全て知っているかのように、ただ微笑んでいる。

 夢では……なかったのかも?

 もしかしたらという打消仮定条件が彼の心に浮かんだが、それは予期せぬ言葉を耳にして見事に吹き飛んだ。

「殺して欲しいの」

 先程の微笑みは、もうどこにもなかった。






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