Episode. Ⅱ "Adaptation"

「小田先生。彼女に名前はあるんですか?」

「いや、まだない。なんなら、君が名付けるか?」

「いいんですか?」


 果たして何分経っただろう。あれこれ考えて、相応しい名前を絞り出した。


「──『マキ』。これでいきましょう」

「……ほう、なぜマキなんだ?」

「ラテン語で『機械仕掛けの』という意味があるex machinaエクスマキナって単語があるんですよ。そこからマキです」

「そいつはいい。それじゃあ、マキでインプットするぞ」

「はい、お願いします」


 = = =


 講義室に軽快な音が響き渡る。チョークを握る教授の手は、とても軽やかに黒板を白い文字で埋めていく。


「……とまあ、このように、情報社会が発展していくと、必ず法律というのは必要になっていくわけで──」


 俺は俊永大学の情報学部に所属している。情報系の学部ということで、講義のほとんどは理系教科なのだが、いくつか文系教科もある。

 今俺が受けているものは、まさに文系教科で、『情報社会と法』という講義だ。法律と情報は畑違いだと思うかもしれないが、実のところは密接に関わり合っている。

 新しい技術が開発されると、絶対に悪用する人が現れる。だから、その技術について、良いことと悪いことの線引きをしなければならない。


 この講義に関して、俺は今までと比べ物にならないくらい集中していた。

 なぜなら──


「まあ、新技術が開発されたらやっぱり、法律が必要でして。例えば、人間とそっくりそのままのヒューマノイドなんか開発されたらどうなると思いますか?」


 麻希の存在。新技術の結晶とも言える彼女のことが、もしも外部に知れ渡ってしまったら……想像するだけで恐ろしい。

 だから、プロジェクトに関わっている以上は俺も法律を知っておかなければならないと思ったのだ。


 しかし先生。すでに人間そっくりのヒューマノイドはいるんですよ。すぐそこに。


「絶対に悪用する人が出てくるはずですよ。機械の感情なんて疑似的なものに過ぎないから、プログラムさえ書き換えれば簡単に操れます」


『先生、俺のすぐ近くにいるヒューマノイドの感情はプログラムされた物なのかわからないくらい複雑です』なんて、やっぱり口が裂けても言えない。


 チラッと横に目配せする。

 そこには当のヒューマノイドがいた。しかも、講義を聞いて「ほへぇ〜」なんて感嘆している。

 おい、インターネットに接続できる博学才穎はくがくさいえいの頭脳を持ってるんじゃなかったのか。



「とても興味深かったです」

「そうだな」


 食堂の隅にあるテーブルを囲って昼食を食べていた。

 麻希は先ほどの講義がお気に召したそうで、ずっと俺に話しかけているのだが、俺には空元気で返事するほどしか元気が残ってなかった。


「ところで、さっきから黙々と何を書いているんですか?」

「気にするな」

「気になります」

「気になるか」

「はい」

「──今日までに小田先生に出さなきゃいけないレポートを書き忘れてたんだよ」

「私のプロジェクトのやつですか?」

「そうだ。これでも俺はプロジェクトの開発リーダーだ。任務はしっかりと全うしなければならない」


 そう、一度引き受けたからには完遂する必要がある。時間に余裕を持って、丁寧に確実に、どんな些細なことでも、しっかりと──


「ところで、今書いてるものは何でしたっけ?」

「──偉い口叩いてすみませんでした」


 こいつ、俺の思考を読みやがって……。



 5限目には体育の授業が入っていた。

 テニスを選択した俺は、黙々と壁打ちをしていた。ほかの人はペアを組んで楽しそうにやっている。女子グループはコートの半面でキャッキャウフフしながらボールを打っている。

 あの中に混ざりたいと思っていた時期も一時はあった。しかし、今は黙々と単純作業をしている方が精神的に楽とさえ思い始めてきた。

 目標も掲げず、徒然なるままに何か行動をする。時にはそのような時間があった方がいい。精神的な余裕があってこそ、研究者は良い研究ができるのだから。


 ——そう、できるのだ。理論上は。


 昼休みに結局書き終わらなかったレポートから目を背けてそう言い聞かせた。気を紛らわすために、壁とラリーをしながら不満をつぶやくことにいた。


「ほんと、研究生活も楽じゃないな」

「おい、あいつ、めっちゃフォーム綺麗じゃない?」

「ああ、金をくれ。研究費を少しでもいいから援助してくれ」

「ほんとだ、なんでずっと壁打ちしてるんだろう」

「結局世の中金だ。金なんだ。クソが——」

「あのぅ……」

「なんだ?」


 後ろから麻希が俺を呼んでいた。せっかくいいところだったのだが。


「なんか、すごいギャラリーの方がいますけど、一体何をしたんですか?」

「……? 俺はずっと壁打ちをしていただけだが」


 振り返ればそこには今までキャッキャウフフしていた生徒、果てには先生までもがこちらを見ていた。いや、先生に関しては睨んでいたと言った方がいいかもしれない。


「え、ちょ、なんっすか」


 強面で有名な体育の先生が、表情を変えずに口を開いた。


「とてもフォームがきれいだな。テニス部に入らないか?」

「……お断りさせていただきます」


 平謝りするつもりでいたが、まさかサークルの勧誘だった。あっけにとられてしまった。


「まあいい。……おいお前ら! こいつのフォームを真似てやってみろ!」

「「「はーい」」」


 知らない間にお手本になってしまっていた。

 俺、中学高校の6年間ずっと体育の評定3だったのだが。



「あのあの……」

「はい?」

「テニスのコツ、教えてください……」

「えっと……」


 ややあって、黒髪の女子生徒が俺に声をかけてきた。明朗とはかけ離れた、自信なさげな声と容姿からして、引っ込み思案な性格なのだろうか。

 というか、この子同じ学科にいたような気がする。名前は、えっと確か……。


美園みそのさん、だよね?」

「——! 名前、覚えてくれていたんですか!?」

「あ、ああ。一度聞いたら覚えるようにしている」


 嘘だ。本当は自己紹介で名前を聞いたとき、『そういえば地元に同じ名前の地下鉄駅があったなー』とかそのくらいのノリで覚えていただけだ。顔と名前は今一致した。


「それで美園さん。テニスのコツってのは?」

「どうやったらそんなに綺麗なフォームになるんですか?」

「それは、だな……」

「よし、そろそろ時間だし、片付けるぞ!」

「「「はーい」」」


 後ろで先生の指示する声が聞こえた。こちらの話も一旦切り上げた方がよさそうだ。


「時間なかったですね……すみません」

「気にするな。後で時間あるか?」

「……はい。このあとは何もないです」

「そっか。なら近くのカフェで話しよう」

「ありがとうございます!」


 そういって美園さんは小走りでラケットを片付けに行った。

 このとき、気が付いたことが一つあった。


「俺って、女子とまともに会話できたんだな」


 中学の頃、嫌な思い出があって以来、女子とはまるで話をしてこなかった。しかし、意外にも人間は環境が変わればそれなりに上手く適応できるということに一人で感心していた。

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