Episode. Ⅰ "Satisfaction"
「あなたが、私の主人なのですか?」
「ああ、そうだ。峯川智彰だ。よろしくな」
「よろしくお願いします」
こんな素っ気ない会話が全ての始まりだった。
= = =
軽快に、しかし不規則なテンポで、ざくざくといった物を切る音が鳴り響く。
「麻希。ちょっといいか」
「はい。なんでしょうか」
「俺は今、料理をしている」
「はい。キャベツの千切りをしてますね」
そう、軽快な音の正体はキャベツを切る音だ。
「そうだ。つまり、包丁を持っている。この事実は理解しているな?」
「もちろんです。視力は2もありますので」
「そうか。ならば……」
「腕に抱きつくのはやめてくれ。その……あれ、あれが、あたってるから」
柔らかい、あの上半身に付いている"山"が当たっている。動揺して、包丁を持つ手がおぼつかない。
これで平常心を保てる男はいるのだろうか?いたら是非とも連絡してくれ。
しかし、麻希はなぜ動揺しているのか分からないようで、頭上に「?」を浮かべていた。
「……? 何か不都合がありましたか?」
「あるよ! 大いにあるよ! 不都合しかない──とも言い切れないけど、まあ、とにかく離れてくれ」
「なぜですか? 私はただ、くっついていたいという欲求を満たしているだけなのに」
「ぐぬぬ……」
このまま、この快楽に浸っていたいと思う自分と、これじゃあ理性が保てないと赤信号を出している自分がいた。どうすればいいのか。
「ま、まあ、あとで構ってやるから料理をさせてくれ」
「むぅ。わかりました。あとで絶対ですよ」
理性の勝利。
麻希は「お、新シリーズやってる」と呟いてテレビドラマに釘付けになっていた。
よかった、「離れたら死ぬ」とか言い始めるメンヘラじゃなくて。
麻希はアンドロイドだ。全てプログラムされた人工の脳と、体に埋め込まれた金属製の骨。人間そのものの体も、もちろん作られたものだ。開発にあたって協力してくれた小田教授の話によると、理学部生物学科の教授も協力してくれたそうだ。
どのようにして人間そっくりにしたのか、不思議は多い。肌の感触なんかは人間と言って差し支えないほどだ。
生物学科の教授がどのようにして再現したのか、なかなか興味深い話だ。
「……切りすぎた」
考え事をしていたら、いつの間にか目の前には緑色の山が形成されていた。
トンカツの付け合わせとしてのキャベツだったのだが、これだとメインがどっちなのかわからない。
「キャベツ切りすぎです」
いや、こうなったプロセスに貴方が深く関係してるんだが。
「どうしたもんかな……」
「ちょっと待っててください」
そう言って麻希は目を瞑った。
かと思えば、数秒も経たないうちに目を開けて呟き始めた。
「千切りキャベツは断面が多い分、空気に触れて変色したり乾きやすくなったりします。見た目も味も落ちやすいため早めに食べきるようにしましょう。基本は冷蔵保存です。少しでも長持ちさせるためのコツとしては、レモンや酢などを少し混ぜたり保存容器に入れて水に浸したりなどの方法がありますが──」
言語は日本語なのだが、呟くように早口でこんなこと言われたら呪文のようにしか聞こえない。
「ストップ! 結論を言ってくれ。そんなに覚えられない」
「千切りキャベツを水にさらして拭いたあと、金属製のトレーに乗せて急速冷凍すればいいそうです」
「なるほど、ありがとう」
「お役に立てて何よりです」
そう言って屈託のない笑顔を見せてきた。控えめに言って可愛いのだ。これがまた。
それにしても、ここまで人間そっくりにされるとは思っていなかった俺としては、なかなか複雑な心境であった。どれだけ自分の心に「ヤツは人工物だ」と言い聞かせなければならないのか。
さっきの呪文のようなアドバイスだって、麻希が脳から電波を発してインターネットにアクセスし、必要な情報を入手してきたものだ。どっからどうやっても人間にはなし得ないものだ。
絡まったイヤホンみたいに、俺の心も色々な紐がぐちゃぐちゃに絡み合ってた。
「どうしてキャベツと一緒に、これから調理するお肉まで冷凍するんですか?」
思考を張り巡らせていたところ、また変なことをしてしまった。
──今日の俺は全然使い物にならないな。
いつもの2倍の時間を要して、ようやくトンカツが出来上がった。
「いつもより遅かったですね」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「──?」
時間はかかったが、味は変わらず申し分ないものだった。
「……あ、美味しい」
麻希のお墨付きもいただいた。美味しく感じているのは俺だけではなかったことに、ちょっとした安心感を抱く。
でも、この安心感は、単に料理がうまくいったということだけではない気がする。
──ああ、そうか。
「そういえば、誰かの分も飯を作るなんて久しぶりだったな」
「え? 親御さんや兄弟は?」
「兄が一人いるんだが、俺より3歳上でな。それでいて女子に囲まれたブルジョワ生活ができるくらいにはモテてた」
「つまり、朝帰りが多かったということですか?」
「そういうこと。それでいて両親は、母さんが社長で父さんが地元の医師会の会長だったから夜勤続きだった」
「なるほど……」
誰かと、のんびりとした時間を過ごすこと自体が久しぶりだったのだ。
きっと、時間を共有しているという、このえも言われぬ感覚が充足感と安心感なのだろう。
「何やら楽しそうですね」
「そうだな。表情筋がバカになっちまったみたいだ」
モノクロだった俺の生活の一部に、華が咲いた。
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