恩師に詩集を渡す-1
第1詩集「世界と繋がり合えるなら」を出版してから1か月が過ぎた。
自分が詩集を出版したことに、正直まだ実感が湧かない。
20代の頃から、「いつか自分の詩集を出版したい!」と、あんなにも強く憧れていたのに・・・。実際に出してみると、案外そう言う物なのだろうか。
そんな詩集を、どうしても渡したいと思っている人が居た。それは、盲学校の幼稚部時代にたいへんお世話になった恩師である。
その恩師は、幼稚部の年少から年中にかけての2年間を担任してくださった。
一言で言うなら、恩師はとても優しくて、どんなことでも受け止めてくれるような、寛大な人だった。そのため私は恩師から怒られたと言う記憶がほとんどない。唯一恩師から注意を受けたことと言えば、当時流行っていたアニメ「おぼっちゃまくん」の「ともだち●●(今じゃとてもじゃないけどそんな言葉言えません)」と言うギャグを、教室で帰りの支度をしながら連呼していたところ、
「ヒカちゃん、そんなこと言ってると、女の子なのに恥ずかしいって皆から笑われちゃうよ」
とたしなめられたことぐらいだろうか。
そんな恩師のおかげで、当時の私にはできるようになったことがあった。それは歌を作ることだ。
学校の敷地内をお散歩している時に、風に舞う葉っぱを見つけた時のこと、授業の風景、土日の休みに家であったこと、その日の朝ごはんや天気についてなど、その頃の私は、様々なことを歌にして、恩師に報告していたそうだ。
その時に作った歌を、恩師がカセットテープに録音してくれていて、私もよく聞いていたのだが、残念ながら現在そのテープを紛失してしまったので、今ではその歌たちを聞くことができない。もしまだどこかにそのテープが残っていたら、怖い物見たさでぜひ聞いてみたいのだが。
恩師は私が年長に上がる前に定年退職された。
担任が変わったことで、私は歌を作るのをやめた。と言うより作れなくなった。その担任が、ものすごく厳しい先生だったので、心を閉ざしてしまったのだろう。
今考えてみても、これはとても残念なことである。もしあのまま歌を作る能力が残っていたら、私は今頃詩人ではなく、シンガーソングライターになっていたかもしれない。自分を表現することの基礎を作ってくれたのは、他でもない恩師だったのだ。
その後恩師とは、小学部1年の生活の授業で、盲学校の周りを歩いていた時に、偶然再会して以来、1度も会っていなかった。
「ヒカちゃん久しぶり。元気?じつは部屋を片付けていたら、幼稚部に入学した頃のヒカちゃんの写真が出てきたから、久しぶりに声が聴きたくなって電話してみたのよ」
恩師からそんな電話がかかってきたのは、今から4年前の夏、28歳の時だった。ちなみにその時のことは、エブリスタでアップしていたエッセイ「未熟者の衝動」の「ひまわりとセミと恩師からの電話」の中でも詳しく書いているので、もしよかったらそちらの方も参照していただきたい。
この電話によって、私の心は大きく動いた。エブリスタのエッセイでも書いたかもしれないが、この時の私は、悶々とした日々を過ごしていた。仕事も恋愛も、家族関係もうまくいかず、自分に自信を無くしていた。
あの電話をくれた時の恩師は、もう80を超えていただろう。恩師が生きている間に、自分の道を定められるようにならなければと、あの電話を切ってから、私はそう自分に強く決意したのだった。
しかしそれから1年半。結局私は心身共に体調を崩して仕事に出られなくなった。おまけに地元の友人や知人たちともいろいろとあって、人間不信になり、今でも続くひきこもり生活を始めることになった。
それでも何かやらなければと思っていた。そんな時に、ふと恩師のことや、あの時の強い決意を思い出したのだ。
どうせ何もやることも無いし、ひきこもったことで、時間も腐るほどあるのだから、この際ずっとやろうと思っていたことをやるのもいいかも。そう思って始めたのが詩の整理だった。
その後いろいろな縁が重なって、今こうして第1詩集を出版することができたのだった。
そんな詩集を、どうしても恩師に渡したいと、思い切って電話をかけてみたところ、私の自宅近くの某全国チェーンのファミレスでお会いすることになったのだった。
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