第12話

吹く風が彼女の長い黒髪を横に吹き飛ばした。

細かい砂を頬に受けながら薄っすらと目を開け、何度か瞬きした。

リースは冷たい砂の上に体を横たえた状態で目を開けた。

意識を取り戻すとそこは闇の谷に行く前の砂漠だった。

辺りには水も海も崖も谷も闇もなかった。

初めに訪れた砂漠に戻っていた。

「ここは…?」

体を起こし、座り直す。

右手で自分の体をあちこち触ってみた。

荒れ狂う海の中で溺れていたのに彼女の衣装は少しも濡れていなかった。

ちょっと考え込むように閉じた手の人差し指を口元に当てて、考え込んだ。

先程までのことを順を追って思い返してみる。

あの臨場感。

あの恐怖。

あの重圧。

どれをとっても「夢」という言葉で片付けてしまうわけにはいかない現実感があった。

(どうやら通常の「夢」とは意味合いが違うようね。この世界そのものが「夢」では構成されていない。「夢」ではなく世界そのものの構成要素が異なっている。まるで別世界のような)

自分の思った言葉にはっとした。

この世界は夢の世界ではない?

(別世界?…まさか妖精界ではない世界に繋がっている?)

そう思って今一度、辺りを見回した。

遠近法がでたらめだが遠くにピラミッドのような建造物。右手には大理石の大きな扉。目の前にはvという形の足跡が地平線まで続いている。ここまでは変わらなかったが、左手にあったはずの崖は影も形もなく、広々とした砂漠がさらに広がるのみだ。

(1つ知ると存在理由がなくなって、消えてしまうのかしら?だとすると、全ての場所を廻ればこの世界そのものが消えてしまうことになるわね。そうなれば、鈴木さんに禍が及ぶこともなくなるか…。この場所が消えてしまう前に、原因を探らないと)

リースは立ち上がった。

両足を左右に動かしてみると足首に通されたグングルーの鈴が軽やかに音色を奏でた。

その音色を聴きながら、目を閉じた。

先程の天使の言葉を思い出しながら、彼女は両手を上げて、独特なリズムを刻み踊り始めた。

一種の瞑想状態になっていた。

「月も星もない。太陽も輝きはせぬ。目は閉じられ、耳は止められ、口は固く結ばれる。これらは全て自らの中に収められる」

(月も星も…。何もない闇に閉ざされた世界。闇は闇。光があるから闇が生まれる。光がなければ、闇は生まれない。生まれなければ、比較するものがないから世界は安定するのか?だから混沌と。何もなく、何も求めない世界…。何もかもあり、何もかもがない世界。自分の中に全てがある世界…。自分の中に全てを内包する世界。外を知らなければ、……知らなければ?)

「我は語る口を持たず、其方の言葉は風鳴りのごとく我には届かず。我は墓穴にある塵…。砂漠の一粒の砂…。闇を覆い尽くす闇…」

(誰も砂漠の一粒の砂に注意を払わない。そこに注目したりはしない。そこに固執したりしない。墓穴。墓穴…人の終焉。最期の場所。自分の世界。自分だけの世界。そこにある塵になど気づきはしない。気づかない。あっても、ないのと同じ)

「言葉は何の意味も持たぬ。言葉は本質を表さぬ。言葉は真実とはなり得ぬ。言葉は言葉によって汚される」

(人の思考は直感よりも言語による思考のことが圧倒的に多い。今の私は憑依している都合上、人の能力を借り受けているから、天使が言うように人と同じように言葉による思考をせざるを得ない。この体でいる限り、宿主の能力に大きく左右されるから、妖精という存在の私の「感覚」は使えない)

「言葉は昼と夜とを分け、世を混沌から矛盾する2つ世界への分離に陥れる」

(物事を区別するためには一方の見方に立って対極を定義することが非常に分かりやすい。昼は夜の対極である。夜でないものが昼で、昼でないものが夜だ。では、昼と夜の中間はどう定義する?このことをあの天使は「矛盾」と呼んだ)

思い出すと顔のない天使の重たい声が耳許でゆっくりと響いた気がした。

「呪われるがよい。呪われるがよい。呪われるがよい…。」

(本当に額面通りの意味なのかしら…?)

リースは動きを止めた。

汗が頬を伝うほど踊り続けていたようだった。

どのくらいの時間を踊っていたのかはわからない。

彼女は両腕を胸の前交差させ、片膝をつき、首を垂れた。

そのポーズはあのカフェで師匠に敬意を払った時にとったポーズと一緒であった。

そのまましばらく彼女は動かなかった。

静かな呼吸音だけが風の合間から聞こえるだけだった。

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