第11話

彼女は目を逸らさずに、天使を見ていた。

天使には羽根や光輪などはなく、全く人と同じ格好をしていた。

ただ違うのは顔がないということ。

星がひとつ輝いているので、その光で彼の表情も顔もわからない。

鼻とおぼしきものはあるが、目や口は表面上ないように見えた。

口がないのに、彼女の耳には彼の言葉が聞こえるのだ。

言葉が「伝わってくる」のだ。

音としてではなく、それは思いに共感しているに等しいものだった。

彼の「思い」を理解するのは彼女には難しいものだった。

様々な思いが怒涛のように渦巻いて、彼女の心に押し寄せてきた。

それは「混乱」ということばがもっとも的を得ていた。

理解しようがない「思い」であった。

色に喩えるなら、色がありすぎてわからない。

赤であり、黄色であり、青であり、緑である。

すべての色がその彩度と明度を失わずに混じり合う。

その色は「黒」としかならないのだ。

彼女は彼の「思い」に共感することも理解することもあきらめ、なんとか彼の言わんとすることを別な言葉で引き出そうとした。

しかし、天使は彼女に向かって話しているようでは全くなかった。

むしろ空に向かって独り言を言っているふうだ。

「混沌を司りしものに、お尋ねします。あなたはここで何を待っておられるのか?」

表情のない顔で天使は何かを伝えた。

その声は低くゆっくりと迫ってくる地響きのようだった。

「待ってなどおらぬ。我にとって「時」は意味を持たぬ。我は闇の中で「神秘」を語るもの」

「神秘とは?」

「汝は我を求めてはおらぬ。故に語るにあたわず」

彼は完全に拒絶した。

彼女の存在を見透かしていた。

「神秘」という言葉に反応した彼女の様子を見て警戒したように見えた。

彼を求めてここに来たわけではないと分かっているのだ。

リースも慎重に言葉を選んだ。

鈴木に関する情報が欲しかった。

彼がこの場にいたことはほぼ間違いないと思ったからだ。

しかし、この天使と鈴木の接点が不明だ。

「では、ここに来た、ある若い男性をご存知か?」

「知らぬ…」

「おそらくはここに迷い込み、あなたの導きではないかもしれませんが、偶然にもここまで立ち入ったことのあるものです」

「知らぬ…。我の目は物事を見る目にあらず。バジリスクの卵を覆い隠す闇として坐すもの」

(バジリスクの卵?)

「生まれ出ずる前はみなその卵の中で安寧を得るもの。理解の門は閉じられている。その印を持たぬもの、理解しないものに門は現れぬ。言葉は何の意味も持たぬ。言葉は本質を表さぬ。言葉は真実とはなり得ぬ。言葉は言葉によって汚される。言葉は昼と夜とを分け、世を混沌から矛盾する2つ世界への分離に陥れる。呪われるがよい。呪われるがよい。呪われるがよい。洗礼を受けしもののみが炎の柱、炎の冠を戴き、薔薇が照らし出す闇に光によってのみ見ることができる。薔薇の中央には鷹の目が卵を見つめている。我の眼の代わりに鷹の目が大海の上から全てを見通す。罪深きものほど呪われるがよい。呪われるがよい。呪われるがよい」

何度も繰り返される呪いの言葉に、彼女は背筋に冷たいものが走った。

強烈な「死の恐怖」が襲ってきた。

彼女はもともと妖精であるが、妖精の彼女ですら恐れをなすほどの強い恐怖だ。

存在そのものを消されてしまうのではないかという恐怖だった。

両手で自分自身を抱きしめた。

そうしないと倒れ込んでしまいそうなほど強い感情だったからだ。

天使の感情に贖おうとすればするほど、上から重圧が彼女にかかった。

彼女は足首のグングルーを何とか鳴らそうともがいた。

足元を見ると今まで空中だと思っていたこの対峙の場所は、夜の海の上であったことに気づいた。

彼女は波打つ海の上、ほんの数十センチの場所にいたのだ。

気を抜けば落ちてしまいそうな勢いだ。

海は凪いでいない。むしろ風で荒くなっていた。

直感的にリースは悟った。

この天使と言葉を交わせる時間はほんのわずかであると。

「死の恐怖」に負けじと彼女は最後の言葉を大声で発した。

「では、今一つ伺いたい!『いばらの王』はここにおられるか?」

天使は次第に姿が海と一体化していった。

透けてはいない。

少しずつ海水の飛沫に姿を変えていっているように見えた。

「知らぬ…。王とは王国にいるもの。ここは王の王国ではない。ここには無しかない。我に問いしものどもよ、呪われるがよい。呪われるがよい。呪われるがよい」

天使の姿が水面と一体化してしまった。

波音は聞こえず、真っ黒な波がぶつかり合う気配のようなものが感じられるだけだった。

リースは何とか右足のグングルーを一度だけ打ち鳴らした。

と同時に彼女は大海へと真っ逆さまに落ちてしまった。

(しまった!)

海の中でもがきながら、彼女は薄れゆく意識の中で天使の最後の言葉を聞いた。

「月も星もない。太陽も輝きはせぬ。目は閉じられ、耳は止められ、口は固く結ばれる。これらは全て自らの中に収められる。我は語る口を持たず、其方の言葉は風鳴りのごとく我には届かず。我は墓穴にある塵…。砂漠の一粒の砂…。闇を覆い尽くす闇…」と。

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