絵里香 M

 絵里香は走った。ハイキングコースは思ったより遠く感じられた。


 途中、道の駅の方で爆音が聞こえた。どうなったのか気になったが、立ち止まることはできない。


 涙は止まっていた。泣いている場合ではない。自分がやらなければ、梨沙や阿田川の死が無駄になる。そして今、おそらく大久保も……。


 そう考えていて、思わずハッとなった。小川の話の内容を吟味した。


 Mを森の中に封じ込めるのが、この石像を使った結界だ。だが、Mが森の外にいる場合は、それは効力を成さないのではないか?


 むしろ、森に戻ってこられなくなったMは、どこか別の場所を目指し、そして、新たな殺戮を繰り返す。もしそれが横浜や東京等の大都会だったら、大変なことになる――。


 絵里香は立ち止まった。そして、道の駅を見上げる。Mがまだあの場所にいるなら、今石像を戻しては駄目だ。Mが森に戻ってからでないと。


 どうしたらいいの……?


 石像を抱きしめながら、絵里香は迷った。


 その時、背後に何かがドサッと落ちてきた。


 「キャッ」思わず息を呑み、振り返る。


 それは、大久保の死体だった。手足があらぬ方向に捻れ、ボロボロの状態だったが、間違いなく大久保だ。


 「いやあーっ!」泣き叫ぶ絵里香。ついさっきお互いの気持ちを伝え合った相手が、今、目の前で無惨な姿になっている。いくら気丈さを身につけはじめた絵里香とはいえ、とても堪えきれるものではない。


 背後に何かが舞い降りた。赤い光が絵里香の影を地面に映し出す。


 振り返るとMが笑っていた。そう、笑っているのだ。絵里香にはわかった。赤い目が大きく光り、そして一旦消える。その繰り返し。それは、Mの感情を表している。間違いなく、今、この怪物は笑っている。


 絵里香は恐ろしさで震えた。だが、ここで自分が殺されるわけにはいかない。怖さ、悲しみなどの感情を抑えて、決意を前面に押し出した。笛を思い切り吹きながら後退る。


 Mは止まっていた。






 ゆっくりと距離を離していく絵里香。しかし、それではどうにもならない。この場を何とかくぐり抜けて、石像を戻さなければならないのだ。それも、Mを森の中へ戻してから。


 どうすればいいの?


 ダイナマイトと銃はあるが、どちらもMには通用しない。むしろ怒りを増してしまうだろう。


 Mがゆっくり動き出す。絵里香は笛を吹くのを強めた。Mがまた止まる。何かを躊躇しているようだった。このまま森へ帰ってくれ、と願った。


 だが、その願いは虚しかった。Mは「キー」と機械のような鳴き声をあげると、再び絵里香に向かって歩き出す。


 もう、だめか……?


 絶望感が押し寄せてきた。結局、みんなの死を無駄にしてしまうのか? 


 不意にMが止まった。そして、キョロキョロとし始める。大きな赤い目の先が、絵里香の右後ろに定まった。


 振り返る絵里香。目を見張った。


 そこに、西田老人が立っていた。絵里香と同じように笛を吹いている。ゆっくりと、絵里香に近づいてくる。


 笛の音が二重になったからか、Mは戸惑ったように、目の光を弱めた。


 絵里香の側まで来た西田だったが、なぜか足下がふらついていた。よく見ると、月明かりに照らされた顔が青ざめている。右の肩あたりが赤く染まっていた。血だ。怪我をしている。それもかなり深手だ。


 西田が肩を押さえて一息つくようにした。それとともに、笛が口からこぼれ落ちる。すぐに拾ってくわえるが、その一瞬の間に、Mは気を取り直したようだ。目の光を強めると、フワリと飛び上がる。そうなると、もう笛をいくら吹いても無駄だった。


 西田は、それまで弱っていたのが嘘のように体をしゃんとさせると、背中にかけていた猟銃を構えた。絵里香を押しのけて前へ出る。


 西田が猟銃を撃つが、Mはやはり動じなかった。その体には、銃は効かない。素早く宙を舞うと、二人の上空を凄いスピードで回り始める。






 「離れてろ」


 そう言うと、西田は腰から鉈をとった。


 そんな物では倒せない――。


 絵里香は思ったが、西田の覚悟を決めた表情を見ると口に出せなかった。


 Mが西田に迫る。西田は鉈を手に待ち構えた。Mが目前まで迫ると、鉈を思い切り薙ぎ払う。だが、鉈は弾き飛ばされ、西田の身体も宙を舞った。


 地面に背中から落ちた西田は、激しく咳き込んで身悶えた。それでも立ち上がろうとしているのはさすがだった。


 Mが再び西田に迫る。絵里香は銃を撃った。Mは方向を変え、絵里香に迫る。


 避けようとしたが、その羽に掠められ、絵里香も飛ばされた。地面に叩きつけられ、激痛が奔る。転がりながら、Mを探した。


 いない――。


 見あたらなかった。巨体とは思えないほど素早いMは、絵里香の目では捉えられない動きで上空を飛び回っていたのだ。


 何とか立ち上がると、絵里香は石像と拳銃、そして笛が散らばっているのに気づく。何を最初に拾うか迷っているうちに、前方にMが舞い降りた。大きく羽を広げ、目を輝かせながら、絵里香に迫ってくる。


 もうだめだ――。


 絵里香は動けなかった。あの赤い光に射竦められてしまった。


 Mが迫ってくる。自分を喰らうために――。


 ここまでしか、できなかった……。屈辱感が絵里香を嘖む。


いや、だめだ――。


 絵里香は自分を激しく鼓舞した。ここで自分が終わってしまったら、梨沙や阿田川、そして大久保の死を無駄にしてしまう。そんなことはできない。


 戦ってやる――。


 絵里香は決心した。適うはずはない。だが、それでも戦う。Mがここを去り、みんなの元に戻っていくのを少しでも遅らせてやる。


 その隙に、みんなが森を抜けていけたならいい。たとえ僅かでも、みんなの力になってから死んでやる。






 絵里香はMを睨みつける。


 腕を食われたら足で蹴りつけてやる。足を食われたら、こっちもその目に食らいついてやる。命が終わる最後まで、戦ってやる――。


 その時、突然後方から風が吹いた。絵里香の姿勢が正されるようだった。


 Mが戸惑うように立ち止まった。絵里香を見て、いや、更にその後ろまで見て、狼狽しているふうにも感じられる。


 なぜ? あっ! 振り返る余裕はなかったが、絵里香は感じた。


 自分の後ろに、大久保や梨沙、阿田川が立っているのを。いや、それだけではない。なぜか、木戸や遠藤までもが、彼女を後押しするように立ち、力強い風を送ってくれているのを感じた。


 Mはそんな絵里香と背後の気配を怪訝そうに見ているようだ。赤い目が、光を弱めている。怪物が明らかに戸惑っていた。


 自分のものだけではない強い力を感じながら、絵里香はMを睨み続ける。


 しばし不思議な時間が流れたところで、ふらふらと西田が歩み寄ってきた。何かを構えている。猟銃かと思ったが、違うようだ。


 西田は、肩で大きく息をし、いつ倒れてもおかしくないような状態ながらMを睨みつけた。そして、声を張り上げる。


 「怪物め、これならどうだ?」


 絵里香の知らない武器をMに突き出す西田。その先端から炎が飛び出し、Mを襲う。


 火炎放射器? 絵里香は息を呑んだ。


 実際はそんな大げさな物ではなく、枯れ草などを焼き払うための道具だった。その威力を強めるために改造した物だ。だが、効果は思いのほか大きかった。


 おそらくMも銃だと見ていたのだろう。しかし、突然自らの体毛が燃え上がり、激しく体をゆすった。赤い目の光が弱まり、羽をバタつかせて火を消そうとしている。


 大きな炎は苦手なのだろうか?


 西田は再び放射した。Mの背中にも火がついた。


 「キー」という鋭くも大きな鳴き声をあげ、Mは火がついたまま飛び上がる。そして一旦絵里香と西田に迫った。二人ともはじき飛ばされる。


 だが、攻撃はそれだけで、火がついたままMは森へと飛び去った。






 激痛を堪えながら、絵里香は立ち上がる。見ると、西田は蹲ったままだ。


 「大丈夫ですか、西田さん」


 駆け寄り、体を支えた。西田はもう、立ち上がる力もないようだった。


 「くそう、あの野郎、また逃げて行きやがった」


 絞り出すような声で言う西田。そして、ゴホッという咳とともに血を吐いた。


 「少し横になっていて下さい。石像を戻したら、戻って来て手当てします」


 絵里香はゆっくりと西田の体を横たえた。


 「石像?」


 西田が目を剥く。そして、絵里香が拾い上げた石像を凝視した。


 「ごめんなさい。私達が持ち去ってしまったんです」


 「なんて馬鹿なことを……」苦しそうに呻く西田。


 「これから元あった場所に戻します。そうすれば、M――あの怪物は森に封じ込められるんでしょう? 力もとても弱まる」


 「俺も連れて行ってくれ」


 西田が上体を起こした。どこにそんな力が残っていたのか、しっかりと立ち上がる。


 「駄目、横になっていて下さい」慌てる絵里香。


 「そいつの置き方も決まっているんだ。顔がどっちの方を向いているかで効果が出なくなることもある。きちんと置かなきゃあならねえんだ。俺にはそれがしっかりとわかっている。さあ、連れて行け」


 自分で歩こうとして、ガクっと膝を突いた西田が、絵里香の腕に縋りつく。


 絵里香は、単に戻すだけで良いと思っていた自分が甘かったことを思い知る。西田の体を支え「じゃあ、ゆっくり行きましょう。苦しくなったら言って下さい」と歩き出す。


 「馬鹿言ってんじゃねえ。俺はもうすぐ死ぬ」


 「そんな……」


 「自分のことくらいわからあ。だから、事切れる前に行ってくれ。急ぐんだ」


 むしろ西田の方が絵里香を引っ張っているような勢いになった。


 西田の身体がどんどん冷たくなってくるように感じられた。焦る絵里香。目指す祠は、まだ先だった。

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