森の中 逃げる人々

 東谷達の進みは時間が経つにつれて遅くなっていた。


 国広家族はどうしても遅れがちになるし、長尾も時折大儀そうに立ち止まる。草や木の根に足を取られて転倒する者もいるし、斜面を滑り落ちそうになることもあった。


 いらだったり、気が滅入りそうになるのを救ったのは小川だった。マイナスになりかける雰囲気を察し、自らすすんで身の上話を始めた。


 「私は、柔道の選手だった頃、1対1の戦いなら誰にも負けないという自信がありました。たとえ相手が他の格闘技のチャンピオンでも見下していた。天狗になっていたんです。そんな時、妻と息子が事故で死んでしまった。失ってはじめて、その二人が私にとって宝物だったことに気がついた」


 「気の毒なことだったな。俺も仕事柄、大切な家族を奪われた人たちに何度も接してきた。だが、何の力にもなれなかった。そういう人たちにとっては、警察など無力だ。そういう人たちの痛みは、他人に推し量るのは無理だ。きっと俺が想像している何十倍もの悲しみ、苦しみだったんだろう」


 木戸が言った。


 「無力なのは私です」特に力むことはないが、小川は何かを噛みしめるように言った。


「誰よりも強いと思いこんでいた自分が、結局妻や子を守ることはできなかった。事故なんだから仕方がない、といえばそうかも知れない。でも、要するに、個人が強くなることなど無意味なんだ、と嫌と言うほど思い知らされました。そして、妻子を失ってしまうと何もできない自分にも気づいた。二人を追って、何度も死のうと考えました。でも、できなかった。ビルから飛び降りようとしても、薬を飲もうとしても、そのたびに二人の顔が思い浮かぶんです。笑顔でね。まだあなたが来るのは早いと言っている。あなたにはやらなければならないことがあるはずだ、と。そう言っているんです。でも、私は、何もする気にはならなかった。それまでの世界から離れ、誰も私を知らない場所でひっそり暮らそうと思って漂っているうちに、導西村に来ました。道の駅の仕事を得て、それなりにみなさんとも仲良くさせていただくようになった。だけどまた、Mから篠山さんや角田さんを守ることができなかった」


 離れた場所で、藤間が息を呑むのがわかった。






 「私がやらなければならないこととは何なのか、ずっと見つからなかった。だけど、今は、ここの人たちをMや敵から守ることに専念したいと思います。そうすれば、妻や子も会いに行くのを許してくれるかもしれない」


 辛く、重い話だった。だが、小川がそんな話をしている間、一同は焦りや苛立ちを忘れていたようだ。時とともに積み重なっていく焦燥感や恐怖を皆が感じないように、小川は自らの過去を明かしたのだろう。


 「Mは格闘技のチャンピオンなんかより強えぞ」遠藤がフッと笑いながら言った。「手榴弾でも死ななかった。俺はこれまで命のやりとりを何度も経験してきたが、正直に言おう。Mが迫ってきて、心の底から怖かった。なあ、学者先生よう、あのMってのは一体何なんだ?」


 急に話をふられて戸惑う國府田。


 「いや、僕にだってわかりませんよ」


 「モスマンっていう奴じゃないのか?」


 「個人的には、同じ種類の生き物だとは思いますよ。ただ、これまで目撃されてきたモスマンは、こんなに激しく人を襲うことはなかった。もっと神聖な存在に捉えられていることさえある」


 「いろいろな奴がいるって事だな、同じ怪物の中にも」


 「まあ、そんなところかもしれない」苦笑する国府田。「こんな状況じゃなきゃあ、詳しく調査したいんですけどね」


 「馬鹿を言うな。ありゃあ、人間が調べるとかできる代物じゃねえ。小川さん、といったか? あんた、個人が強くなることなんか無意味だと言ったな? その通りだろうよ。人間なんて、どんなに強くなったって、Mからすれば餌にすぎねえんだ。あんたと一緒にするのは失礼だろうが、俺もMに襲われて、人間なんて無力なもんだと思い知ったよ」


 やくざの幹部が殊勝なことを言うので、木戸や東谷は思わずその表情を見つめた。心なしか、最初に会った頃より険がとれているような気がする。






 フッと沢崎が息を漏らした。笑みを浮かべている。


 「おかしいか?」遠藤が沢崎を睨んだ。


 「ああ。あんたがじゃない。俺がだ」


 「あ? どういうことだ?」


 「俺もMと遭遇して、ずいぶん久しぶりに恐怖というやつを感じた。いや、これまで生きてきた中で、一番怖かったよ。Mの前では俺もあんたと一緒かと思うと、おかしくなってきた」


 「へっ、どこまでも気にくわねえ野郎だな」


 睨んだまま言う遠藤だが、これまでのように食ってかかることはなかった。


 「人間なんて、みんな同じ、弱い生き物なんですね」長尾美由紀が誰にともなく言った。「だから、みんな助け合って、寄り添って生きていくんですね。家族や仲間達と……。帰りたい……」


 囁くような声だったが、みんなの胸に染み入ってきた。確か、彼女には国広沙也香と同じくらいの子供がいるはずだった。


 「帰るんだ」東谷が強い口調で言った。「生き延びて、帰る。そのために我々は動いているんだ」


 自分に強く言い聞かせた。東谷には帰るべき家庭はない。だからこそ口にした。胸の中で「この人達を帰すんだ」と強く思いながら……。

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