森の中の休憩所 逃げる人々②
「その笛とて万能じゃない」小川が言う。「西田さんの話では、人間にとっての嫌な音、という程度らしいです。ガラスとか黒板を爪でひっかくと不快な音が耳につくでしょう? あんな感じらしい。そんな音が鳴っているときにはあまり動きたくないけど、怒りとか、あるいは欲望の方が強かったらそれでも動く。だから、Mも笛だけで無力化することはできない。怒らせたら笛があろうと襲ってくる」
「しかし、よくそんな物を作れましたね、西田さんは。それも古文書や何かに書かれていたんでしょうか?」
國府田が興味深げに訊いた。
「それが……」小川が、これまで以上に真剣な表情になる。「Mがこれほど猛威をふるうようになってしまったのには訳があるそうなんですが……」
その笛は、Mを封じ込めていた、仮に結界と呼ぶものを作り出す石像を調べて、西田が作った物だそうだ。
Mは、怪物、魔物、化け物、物の怪、妖怪等と様々な呼び名で、遠い昔から人間を恐れさせていた。それは、もう何百年も前からだという。
単なる人食いで異形の怪物というだけでなく、人々の恐怖感や悪意、狂気などを感じ取り、それに引き寄せられると言われていた。さらに、わざと人を脅し、充分に恐怖感を与えたうえでとどめを刺して喰う、ともいう。
西田は、それは、人が緊張した時などに何らかの分泌物を出すからではないか、と考えていた。Mはそれを好むのだ。その分泌物の加わった血液や肉や内臓を。
戦国の世がようやく落ち着き、いわゆる徳川幕府が築かれようとしている頃、この天童地区の怪物のことが人々の話題に上った。
当時、この辺りには人家はないが、峠道があり、旅人や、あるいはどこかの軍勢が山を越えるため通った。そして、しばしばその怪物によって犠牲者が出た。
そこで、幕府では各地の整備計画の中に、天童地区の怪物を退治する、という項目を盛り込んだ。そして、文武両道の士として名高い掛川身延という武将をその任に当てた。
三百名を超える兵を率い、掛川は天童地区の丁度道の駅あたりに陣を張り、怪物と戦ったという。だが、あまりの怪物の強さに兵は失われるばかりで、とても退治など無理だと悟った。退治が無理なら、何とか抑え込むことはできないか、と研究を重ね、天童地区の森に結界を張ることにした。
この場合の結界とは、本来の、何らかの術や法力によって形成されるものではなく、怪物が苦手とする音を森中に流し共鳴させる事でその効力を最大限に発揮するための、装置に似たものだった。
怪物との度重なる戦闘で、矢が風を切る音に対して嫌悪の反応を示すことを見てとっていた掛川は、人間には聞こえないが怪物が嫌がる音を発生させることに成功した。自然の空気の流れによってその音を発生させることのできる石像を造り、それを天童地区の森の周りに24個取り付けたのだ。
その石像が発する人には聞こえない音は、森の中で共鳴し、響きを強くし、怪物にとって単なる嫌な音ではなくなり、その能力を大幅に抑え込む。
掛川が天童地区の地理を徹底的に調査し、最大限の効果が挙げられると計算し尽くして設置したのだった。
つまり、この24の石像が設置されているかぎり、天童の森は特別に強力になった周波に包まれ、怪物はそこから出ることはできないし、また、その能力も大幅に抑えられる。
掛川の働きにより、その後犠牲者の数は激減したという。怪物の能力は、西田に言わせると「せいぜいツキノワグマ」くらいになり、単独で森に迷い込む者や小さな動物くらいしか襲って食うことはできなくなったらしい。そのため、怪物は、それまでのように大胆に行動できなくなり、森の中で隠れて生きるしかなくなった。
だが、驚異は消えたわけではない。24の石像のうち一つでも欠けたら、共鳴することができず結界は効力を失うのだ。
掛川身延の時代からしばらく後までは、石像に異常がないよう守人が任命されていたという。それが無くなっておそらく数百年。今、何者かの仕業か、あるいは何らかの不可抗力により、結界が壊された。だから、Mが暴れ始めたのだ。
「その、石像が出す人には聞こえない音が、この笛のと同じだと?」
東谷が不思議そうに笛を見つめた。
「そういうことだそうです。当時の科学や技術の結晶のようなものでしょう」
「その24のうちどれかが無くなったか壊されたかして、結界が崩れてしまったというのか?」
遠藤が訊く。小川が大きく頷いた。
「それさえ元に戻せば、Mはおとなしくなるのか?」
木戸が期待のこもった表情になる。
「そうでしょう。でも、24個確かめにまわるだけで大変な時間がかかる」
小川が申し訳なさそうな顔で言った。
「今から俺達でそれをやるというわけにはいかないようだ。そんなことをしている間にMか黒崎のどちらかにやられてしまう」
沢崎が言う。
「しかし、もしこのままであれば、Mは天童の森を離れて別の場所で犠牲者を出すこともあり得る。どこかの都市にMが行ってしまったら、とんでもないことになる。それはふせがないと」
「おいおい」木戸の話に手を振る遠藤。「今は、俺達が助かるだけで手一杯だぜ。そんな他人のことは、俺達が生きてここから逃げ出すことができてからの話だ」
「Mがこの森を出て行くとしたら、俺達と黒崎達、すべてを食らいつくしてからだろう。奴は俺達を狙って動いている。充分怖がらせた上で喰おうとしている。自分のテリトリーに餌が大挙してやって来たと喜んでいるんだろうな。逆に言えば、俺達がこの森にいるかぎり、Mは他へは行かない」
沢崎が冷静に言った。
東谷は、絵里香の変化に気がついた。
何かとても重要な事に気づいた、というような顔をしている。愕然としているようにも見える。そして、大久保と視線を合わせると、深刻そうに息を吐いた。そう言えば、大久保も青ざめている。
梨沙と阿田川も確かめてみると、絵里香より更に険しい表情をしていた。梨沙は今にも泣きそうだ。阿田川は蒼白な顔となり、身体を震わせている。
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