森の中の休憩所 逃げる人々

 あの建物はもう使えないので、急いで後にした。


 この森の中、そしてこのハイキングコースの中では一番月明かりが輝くと思われる場所に、東谷率いる人々は来ていた。


 ちょっとした休憩所になっている。ここまで案内してきたのは小川だった。


 疲れが募ってこれ以上歩くと精神的にも身体的にも危険だと思われる、梨沙や長尾、そして国広みどりと沙也香らを慮り、一旦休憩をとる。


 朽ち果てかけたベンチがある。東屋と呼ぶのさえ憚られるような、かろうじて屋根と柱だけが残っている建物もある。


 ここまで、皆、殆ど無言で進んできた。


 西田に貰ったという、Mが苦手な周波を出す笛が3つあり、小川、東谷が一つずつ持った。残りの一つは、交代で拭きながら進んできた。音が聞こえないのでつい忘れがちになるが、Mの驚異をとりあえず予防する事のできる、唯一の手段だ。


 この笛の説明と、西田の小屋にはまだダイナマイトをはじめいくつかの武器が残っている、という話だけは聞いた。そのため、西田の小屋に行くことで即座に話がまとまった。


 「僕はてっきり、あの時小川さんは死んでしまったと思い、確かめもせずに一人で戻ってしまった。すいませんでした」


 本当に申し訳なさそうに藤間が頭を下げた。


 「いや、あの状況じゃあしょうがない。気にしなくていいです。私自身も死ぬと思った。だけど、柔道をやっていたおかげで気を失いながらでも受け身をとることができて、打撲ですんだ。頭や首は無事だった」


 「あんなに高いところから叩きつけられて、それでも受け身がとれるなんて、大変な反射神経ですね。身体も頑丈だ。凄い」


 素直に感心する藤間。






 「あんた、どこかで見たことがあると思っていたが、そうか、柔道の小川か。10年くらい前に世界選手権で活躍し、オリンピックにも出場するだろうと言われていたあの、小川和彦……」


 木戸が言うと、みんなが「ほうっ」という声をあげ、小川を見る。


 「俺も柔道をやっていてその縁で警察に就職した。だから、ずっと柔道には興味をもって見てきたんだ。オリンピック直前になって、急に何かの事情で引退してしまったらしい、という噂を聞いた。その後はまったく消息が知れなかったんだが、こんなところで出会うとはな……」


 木戸が感慨深げに言うと、小川は少しだけ目を伏せた。


 「妻と子供がいたんです。でも、事故で死んだ……。子供は男の子で、まだ3歳だった」小川は、そう言うとチラリと沙也香を見た。「その後、自分も死のうと考えました。だけど、なかなかそれができず、一人でフラフラしていて天童地区に来て、何となく居着いてしまいました」


 しんみりとした雰囲気が漂った。


 そうだったのか――と東谷は腑に落ちるような感覚を持った。無口で黙々と仕事をこなしている彼に、どこか触れてはいけないようなものがあると感じていたが、そういう事情があったのか。


 「まあ、私のことはいいでしょう」小川はそう言うと、表情を険しくした。「それより、怪物のこと――Mと呼んでいるんですか? そのMについてですが、西田さんから聞いたことを説明しましょう」


 小川はMによって一瞬気を失わされたが、その直後に西田がMを音のない笛で追い払うのを朧気に見ていたという。背中から地面に叩きつけられたためしばらく声も出せなかったが、身体のダメージがある程度治まり、動けるようになってから、西田の後を追った。そして彼の小屋を見つけ、話を聞いたそうだ。


 西田の兄がMと思われる怪物に殺されたこと、その後、彼が、Mを倒すことを目標に生きてきたこと。彼の小屋には彼がこれまで集めてきたM――怪物――に関する書物が山積みされていたこと、また、Mを倒すための武器も多くあること……。


 もっとも、それらで倒せるという保証は全くないが。






 「西田さんは、Mの正体についてわかっているんでしょうか?」


 国府田が訊いた。


 「いや、正体を知っているということではないみたいです。ただ、これまでMについて書かれている昔からの書物や伝説の類をよく調べ、また、西田さん本人が子供の頃に見た姿を合わせて、概要はよくわかっているようでした」


 「西田さんは、今、一人でMを?」木戸が訊く。


 「ええ。一緒に行動しようと誘ったんですが、頑として聞かなかった。とにかく一人で怪物を倒す、と言っていました。それが、自分の生きてきた証だと。その代わりというか、私がみんなを案内して小屋を使ってもいいし、小屋に置いてある武器類を使用しても構わない、と言ってくれました」


 話を聞きながら様子を見ていた東谷が、ハッとなった。そして立ち上がる。


 「どうした?」沢崎が訊く。


 「飛田と佐久間がいない」


 「何だと?」遠藤も立ち上がった。


 他の者も辺りを見まわすが、あの二人の姿はやはり見つけられない。遅れたということではないらしい。


 「あいつら、さっきから仲良くしていたと思ったら、お手々繋いでトンズらか」


 遠藤は怒っているようだが、それほど激しく声を荒げたりはしなかった。むしろ呆れている、という方が近いかもしれない。


 「放っておけ」


 沢崎があっさりと切り捨てるように言う。東谷も、木戸も、あえて探しに行こうとは思わなかった。


 「笛が……」藤間が慌てた。「順番では飛田さんが吹いていることになっていました。あの笛を持って行かれて……」


 「あの野郎……」さすがに舌打ちする遠藤。


 「仕方がない。あと二つあるから、それを大事にしよう」


 東谷が言って、預かっていた笛を出した。

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