元博物館 逃げる人々③

 合間を見計らい、東谷は沢崎の側に来た。顎をしゃくり、3階へ行こうと誘う。2人だけで確認し合いたいことがあった。


 「何故逃げない?」率直に訊いた。


 「逃げて欲しいのか?」


 「誤魔化すな」


 沢崎は肩を竦めながら笑った。


 「道の駅を俺と二人で出た後なら、おまえなら、逃げようと思えばいつでも逃げられたはずだ。今、ここで襲撃に備えている間など、絶好の機会だ」


 「そう言われてみれば、そうだな」


 「一人で逃げた方が、おまえとしてはやりやすいだろう。黒崎にそう言ったのは、奴らを混乱させるためだけじゃなく、本当にそうするつもりだったからじゃないのか?」


 「甘く見るな。俺は約束は守る」


 強い眼光を向けてくる沢崎。東谷は負けないくらい厳しい視線を送り返した。


 「おまえらの世界では、そういう約束を守ってしまう方が甘いと言うんじゃないのか?」


 「よっぽど汚い世界だと思っているんだな。まあ、その通りかもしれないが」


 「何か企んでいるのか?」


 「俺だっていろいろ考えるさ。その中には、他人から見れば些細だと感じられるものもあるだろう。例えば、あんたと決着をつけたい、とかな」


 東谷は沢崎を再度睨む。


 「この間は俺の負けだった。次は勝つ。馬鹿らしいことかもしれないが、こだわりってのは誰にだってあるだろう」いつもの軽い笑いを浮かべる沢崎。「遠藤も俺とケリをつけたいと思っている。それに応えてやりたいという気持ちもある。鬱陶しいからな。そういうのは、まず黒崎達を倒した後だろう」


 「なるほど、本当に馬鹿らしいこだわりだな」


 短く息を吐く東谷。もしかしたら、本当にそういう理由だけで、こいつは逃げないのかもしれない。そんな男もいるのだということは、警察生活が長くなった東谷には、理解できないものではなかった。






 「あとは……」沢崎は、言うのを躊躇うように視線を泳がせた。   


「あとは?」


 「あの子。沙也香という子供だけは助けたい」


 意外なことを聞いて、東谷はまじまじと沢崎の横顔を見た。


 「借りを返したいんだ」


 「借りだと?」


 「道の駅であの子が差し出してくれたオレンジジュースは、大げさでなく、これまでの人生の中でも指折りの美味さだった。だからせめてもの礼として、助けてやりたくなった」


 東谷は驚きながらも、どこかで納得する部分もあった。オレンジジュースというのは象徴でしかない。あの少女の好意が、あるいは彼女の持つ何かが、この恐るべき暗殺者の深い部分を揺さぶったのだ。それにしても……。


 「そういう場合は、借りを返すとは言わないものだ。恩を返す、と言え」


 沢崎はハッとなって東谷を見た。そして微笑む。「そうだったな……」


 東谷は軽く笑い返すと、一人で下へ向かった。


 体制は整いつつあった。「あらかた終わった」と木戸が言う。他の者達も、作業を終えて、一階ロビーへ集まり始めた。


 皆、積極的か消極的かの違いはあるが、戦う覚悟は決めつつある。正直なところ、勝てるかどうかはわからなかった。それでも、逃げるだけより立ち向かう方がましだ。


 だが、残念ながら、準備も覚悟も無駄になる。彼らが想定したのは、あくまでも黒崎達武装集団だからだ。


 先に襲ってきたのは、別の存在だった――。

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