森の中 遠藤 三国 沙也香

 「ヒイィ……」這うようにして、三国は離れていく。だが、遠藤はその襟首を掴むともの凄い力で立たせ、引き寄せ、そして、岩のような拳を顔面に浴びせた。


 体ごと吹っ飛んだ三国は、これまでの人生で味わったことのない程の衝撃を受け、意識が飛びそうになった。体が動かない。


 遠藤は、沙也香を見て「大丈夫か?」と声をかける。


 沙也香は固まったままだった。顔中涙だらけにして、震えている。遠藤の胸は激しく痛んだ。落ちていた服とスカートを拾い、沙也香にかけてやる。


 「もうすぐパパとママも来るから、もう大丈夫だよ」


 優しく頭を撫でる。沙也香の精神的ショックは当然ながら大きかった。まだ、ヒクヒクと喉を鳴らすのみで、声も出なければ体も動かせない。手の平から伝わる小さな震えを感じ、遠藤は滾る怒りを抑えられなくなった。


 倒れている三国をまた引き起こす。力任せに振り回し、投げ飛ばした。


 ゴホッと三国が咽せた。そして、まるでムカデのように地を這い、遠藤から離れていく。


 「殺してやる。てめえ、ぜってえ許さねえ」遠藤が迫っていく。「銃なんてもったいねえ。この手でその首をへし折ってやる」


 「た、たすけて」転げ回りながら逃げる三国。「もう、僕たちは殺されちゃうんですよ。だったら、死ぬ前にせめてやりたいことをやる方がいいじゃないですか。あなただって人を殺したことがあるんでしょう? 罪のない人を犠牲にしたことがあるんでしょう? 僕とそんなに変わらないじゃないですか。そんなに怒ることはないじゃないか」


 口元と鼻から血を流しながら、三国は更に涙もまじえて訴えた。


 「確かに俺は人でなしだ。だがな、そんな俺にだってぜってえ越えちゃいけねえ一線ってのがあるんだ。それは理屈じゃねえ。俺のここにあるものだ」遠藤は自分の心臓の辺りを自らの拳で叩いた。「てめえはそれを越えやがった。人としてどうとか、そんなの関係ねえんだ。俺はおまえを許せないと思った。それがすべてだ。だから、ぶっ殺す」


 怯えきって口をパクパクさせる三国。何か言わなければならないが、何も言えない。そんな三国の前に立つと、遠藤は再び襟首を掴み、引き寄せ、そのまま側にある木に三国の背中を叩きつけた。


 「ぎゃあぁぁっ」三国が激しく叫ぶ。






 遠藤は三国の喉を鷲掴みにした。そして人並みを遙かに超える握力で握りしめていく。三国の顔がみるみる赤くなり、目が飛び出さんばかりに見開かれていった。


 「よせ、遠藤っ」木戸が駆けつけた。遠藤に飛びつき、引き離そうとする。


 「放せ。こんな奴生かしておいてどうなるってんだ?」


 遠藤はまだ三国を掴んだまま怒鳴った。


 「落ち着け。とにかくその手を放せ。こんなことをしている暇はないんだ」


 木戸が必死に言う。大久保もやってきたので、彼に指示して一緒に遠藤を抑えた。


 遠藤は、渋々三国から手を放した。三国はゴホゴホと咽せながら、その場に蹲る。


 「沙也香っ」国広夫婦が駆けつけた。みどりが沙也香を抱きしめる。やっと、沙也香が声を出した。「ママ。ママ……」か細い声だが、それを聞いて、遠藤のマグマのような怒りも少しずつ退いていく。


 「貴様――」


 絞り出すような声が聞こえて木戸は国広を見た。そして驚愕した。


 国広が銃を構えている。銃口は三国にまっすぐに向いていた。


 「よくも、沙也香を」腕は震えていた。表情には、怒りだけでなく迷いも見てとれる。


 「よせ、やめるんだ」


 「ひぃ、助けて」


 三国がまたムカデのように這い始めた。国広の腕がそれを追う。


 「よくも、沙也香を――」


 弾き金にかかった指に力が込められていく。だが、国広の前に一人立ちふさがった。


 「あなたはまだ、手を汚していない」絵里香だった。「気持ちはわかります。だから、私が代わりにやる」


 絵里香は銃を出し、それを三国に向けた。


 「な、何をする」更に驚愕する木戸。


 遠藤も大久保も息を呑んだ。


 「私はさっきもう人を殺してしまった。いえ、人の皮を被った野獣を。この男も同じ、いえ、もっと卑劣な生き物よ。殺しても何とも思わないわ。こんな人、死んでしまえばいい。こんな状況の時にまで幼い子を襲おうとするなんて、人間じゃない」


 強い口調で言った。鋭い眼光で三国を睨みつけている。






 「絵里香ちゃん……」大久保が溜息のように漏らす。


 絵里香は、少し寂しそうな表情で大久保を見る。だがそれは一瞬で、すぐに厳しい視線を三国に向け直した。


 「子供が見ている」木戸が静かに言った。「子供が見ているところではやめよう」


 絵里香は、母親にしっかりとしがみつきながらこちらを向いている沙也香を見た。そして、仕方ない、という表情でゆっくりと銃を下ろした。


 ホッと一息つくと、木戸は三国に歩み寄り、手錠をかける。


 「すいませんでした」


 しれっとした様子で言う三国。顔は醜く腫れ上がっていた。血まみれだ。


 「本当は、俺が殺してやりたいくらいなんだよ」


 そう言うと、木戸は三国を引っ立てて歩いた。


 元の場所を目指し、しばらく皆、無言で進む。


 途中、ようやく強張りを解き始めた沙也香が「おじちゃん……」と言った。


 誰に呼びかけているのかわからず、みな、沙也香を見る。彼女の目は、遠藤にまっすぐ向けられていた。


 ん? 遠藤がキョトンとした。


 「おじちゃん、ありがとう」


 小さな声だった。しかし、しっかりと聞こえた。


 「え?」遠藤は戸惑った。こんなにまっすぐに、こんなに純粋に礼を言われたのはおそらく何十年かぶりだろう。まだ、自分が汚い道に入る前のことだ。


 「い、いや……」


 遠藤が口ごもっていると、木戸が肘で小突いてきた。「素直に応えてやれ」


 「ど……ど……、どういたしまして」


 ぎこちなく笑みを浮かべながら、遠藤が言った。


 ぷっ、と吹き出す声が聞こえた。絵里香だった。木戸も思わず笑ってしまった。


 「な、何だよ? おかしかったか?」


 「いや、上出来だ」木戸が遠藤の肩をポンと叩く。


 遠藤は沙也香をもう一度見た。微かだが、笑ったような気がした。遠藤は、これも何十年かぶりに浮かべた邪気のない笑顔を返した。

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