森の中 西田の小屋

 野郎め、またやりやがった……。


 西田は小屋に入ると中央に置かれた椅子にドカッと座り込んだ。篠山や角田、小川の顔が目に浮かぶ。いい人達だった。それなのに……。


 猟銃を手にした。構える。あの怪物の幻影を見た。こんな銃で奴を仕留められるとは思わない。しかし、武器はこれだけではない。


 この小屋は、何十年も前に西田一人で建てた。


 そして、怪物を倒すために、いろいろな武器を持ち込んでいる。銃も、鉈も、火炎放射器も、そしてダイナマイトもある。羆用の罠も揃えてあった。


 やっと宿敵と対決できる。絶対に仕留めなければならない――。


 西田はもう60年以上前の出来事を思い出した。


 まだ子供だった西田は、五つ年上の兄と友人達とともに、この森へ入った。


 あの頃は、もっと木々も多く、濃厚な森だったと思う。もちろんハイキングコースなんてものはない。博物館なんてあるわけもなかった。


 人々は、自然の恵みと恐怖とをともに受け入れながら暮らしていた。


 森の奥には怪物がいる。絶対に足を踏み入れてはいけない――。


 天童地区の森に隣接する村々に共通している言い伝えだった。


 だが、あの日、西田は兄や友達に誘われるまま、森へと入って行った。


 子供のことだから、それほど深くまで入ったわけではない。大人達がたまに山菜などを摘んでいるあたりまでだ。だが、子供達にとっては、明らかに未知の世界だった。心はときめいた。奥底にある冒険心が擽られた。






 そして、それは唐突に現れた。


 何か動物の悲鳴が聞こえた。子供達は驚き、足を止めた。怖くて動けなくなった。かろうじて、兄が「静かに近づいて、様子を見よう」と言った。兄がいるというのが心強く、少しだけだが、歩を進めた。


 すぐ側で、イノシシが血まみれになって食われていた。


 イノシシに覆い被さるようにして、それはいた。巨大な体。鳥のような羽。赤く、血のような色をした大きな目。それが、イノシシを襲い、食べていたのだ。


 子供達の体は竦んでしまった。逃げたくても逃げられない。


 しばらくすると、それは、もうボロボロになったイノシシから身を離した。そして、子供達の方に視線を向ける。大きな赤い目の光が強くなったり薄くなったりしていた。


 西田は泣きたくなった。子供達の中にはもう泣き出した者もいた。


 それが、ゆっくりと近づいてくる。大きな羽を広げた。


 異様な体だった。肩の中心が少しだけ盛り上がっている。下に二つの目。口はその時は見えなかった。ただ、目の少し下あたりに血が滴っている。体毛で見えないが、おそらく鋭い牙のある口が隠れているのだろう。不思議なことに、腕はなかった。あの羽が腕代わりなのだろうか?


 とにかくそれが、言い伝えの怪物であることは間違いなかった。


 「源、逃げろっ!」と兄が叫んだ。


 西田は「え?」と言って兄を見た。


 兄は早く行け、と身振りで示し、他の友達にも同じようにした。そして自らは、側に落ちていた枝を拾い武器にして、化け物に向かって行った。


 その後どうなったのかわからない。西田も、数名の友達も、必死で走っていた。


 森を出ると、すぐに大人達を呼んだ。駐在所があったので、そこのお巡りさんも引っ張り出した。「兄ちゃんを助けて」と必死に叫んだ。






 大人達による捜索隊が森へ入って行った。駐在さんも父もいた。


 夜遅くまで捜索が続けられたが、結局怪物も、そして兄も見つからなかった。


 子供達が怪物を目撃した場所には、イノシシの死体もなかった。ただ、木の幹に夥しい血の痕があった。


 「もう絶対に、森の中へ行っては駄目だ」


 大人達に厳しくそう言われた。


 母は泣いていた。父は涙を堪えていたが、体を震わせ、拳を握りしめていた。その時の両親の姿は、いつまで経っても脳裏から離れない。


 その後、父は、まわりの人々が止めるのも聞かず、猟銃と鉈を持って毎日のように森へ入って行った。兄がまだ生きていると信じ――実際は信じようという自分の気持ちに縋って――捜そうとした。


 そんな父も、ある日、森から帰らなかった。その時も捜索隊が出されたが、やはり見つけ出すことはできなかった。


 その後、西田は成長するに従って伝説の怪物のことを調べ始めた。


 いつしか「仇は俺がとる。とらなければならねえ」と心に決めていた。


 数々の書籍、古文書、伝聞を収集し、その解読と研究をした。


 それらによると、ずっと昔に、ある武将がこの地で猛威をふるっていた怪物を封じ込めるために結界を張ったという話があった。だから、怪物は森から出て来られないのだ。


 また、その結界により、怪物の能力はかなり減退させているはずだった。だからこそ、西田達は逃げることができた。あの怪物が全力を出していれば、子供達は皆捕まっていたはずだ。


 結界は確認した。それを調べることにより、怪物の苦手なことも見つけた。そして作りあげたのが、この笛だ。


 人間の耳には何も聞こえないが、怪物には何か聞こえるらしい。奴は、その音が苦手なのだ。


 さっき藤間が襲われそうになった時に助けられたのも、これのおかげだった。


 もっとも、実際に試したのは今日が初めてだった。西田が怪物を探し始めて何十年も経つが、やっと今日遭遇できたのだ。






 そして、やはり結界の有効性は確かで、それはきちんとした理由――奴の苦手な音――があったからだという事も確認できた。


 しかし奴は今、森の外へも出られる。そして、その能力も全開している。結界によって抑えられていたものが、解放された。何故か?


 考えられることは一つ。結界が崩れたのだ。


 さっきから西田には、道の駅を含む、この天童地区の雰囲気がこれまでと違って感じられていた。それは、結界が崩されたからだと思う。


 これはもう、どうしようもなかった。結界を確かめ、もし不具合があれば修正することで、再度張り直すことは可能だろう。実際にこれまで、何度か崩れかけた結界を張り直したことはあった。


 だがそれは、怪物がその結界の内部にいることが前提となる。自由の身となった奴は、今、どこにいるかわからない。


 倒すしかない――。


 もう一度、猟銃を握りしめる西田。


 奴は、人間の恐怖心や、あるいは殺意等の邪悪な心を感じ取ることができる。そして、それに引きつけられる。ある古文書には、そういった人々の乱れた心を餌にするとさえ記載されていた。


 今、天童地区には、そんな人の感情が溢れている。奴は絶対、また何かやるだろう。


 西田は立ち上がった。昔から愛用しているリュックに、ダイナマイトを詰め始めた。そして鉈を腰につける。


 ドン、ドン、という音が聞こえたのはその時だった。何者かが、入口のドアを叩いている。西田は猟銃を手に身構えた。笛を口にくわえる。


 ドン、ドン、と再び音がする。ゆっくりドアに近づく西田。


 「西田さん」ドアの向こうから声がする。


 慌てて開けると、意外な男が立っていた。

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