最終話『固定概念を壊した者達』

「リーベ様……朝でございますよ」


 鈴の音のような優しい声が、沈んでいた私の意識を朧気な夢から醒ます。

 うっすらと開けた目に映るのは、白と黒が織り交ざったメイド服を律儀に着込んだ、ブラウン色の長い髪を靡かせた女性の姿だった。


「早くお目覚めにならないと……キス、してしまいますよ〜?」


 髪の色より控えめな褐色を宿した双眸は、ずっと見ていると吸い込まれそうになる。

 整った鼻筋も、端正な顔立ちと合わされば万人をも魅力する淑女の美顔となる。


「いいのですかー……? 本当に、してしまいますよ〜?」


 美顔となるのだけれど、どういう訳か、桃色の唇は妖艶な笑みを浮かべていて──


「いや、やめなさいよ⁉」


 ようやく彼女が何をしようとしていたか判別して、鼻と鼻が触れ合うほど接近していた顔を両手で押しのける。


「あーんっ」


「あーんっ、じゃないわよ! 私が朝弱いってこと知っての行為よね、それ」


 いつものことでは無くとも偶にあることなので、それがまた少し質が悪い。

 まあ、実際に彼女から私の唇を奪ったことは無いのだけれど、どうやら私が寝惚けていた時に私から、その……してしまったことは何度かあるらしい。

 この話はこれで終わろう。うん。


「リーベ様、早く準備をしないと学園に遅れますよ?」


 そう言って、ルチスリーユ・ヴェロニカル・ヴァイオレット・ホワイトリリースは扉を開けて優しく微笑む。

 まるで母親のようなことを言うものだ。

 しかし、母親もしくはお姉さん代わりのような存在ではあるので、遜色は無いのだけれど。


「そうね。……あ、そうだ」


 言い忘れていることがあったので、廊下に出るのはそれを言ったあとにしよう。


「おはよう。ルチスリーユ」


「────」


 何故か、改めてそう言いたくなったのだ。

 別に、次の日の朝が迎えられるかどうかが分からない死地に居た、という訳でもないのに。

 そして、ルチスリーユは何故か暫し固まっていたが、その静止が解けると、


「はいっ、おはようございます!」


 パァ! という効果音が付きそうぐらいに満面の笑みで、朝の挨拶を返してくれた。


**


「「おはようございます、リーベ様!」」


 食事会場へ向かうと、メイド隊・身辺警護隊合わせて、総勢七七人の使用人一同が大きな挨拶で迎えてくれる。

 これは私が強要した慣習ではなく、彼らが自然とやり始めたことだ。大勢に迎えられる朝というのも悪くは無いのだけれど、慣れるまでに時間がかかる。

 けれども、自分が手を差し伸べた結果が今こうして還元されているのだから、誇ることであり、安堵することでもある。


「……?」


 そこで、ふと、何かが物足りない感覚を覚える。


「どうされました?」


 思案する私に気付いたのか、ルチスリーユが尋ねる。


「いや、この中で、私に愚鈍な馬鹿畜生呼ばわりされていた者が居たような……」


「それはもしかして、オイラのことっスか?」


 声があった方を向くと、髪の毛が鬱陶しいぐらいに逆立っている小男が目に入った。ピナリロだった。独特なポーズをこちらに向けている。


「ま、確かにお前は姫様に一番しごかれていたからな!」


「その役目、誠に羨ましいっ!」


「姫様にしごかれるなんて……昇天の極み……!」


「変態が。我らのアイドルの御前にして失礼であるぞ!」


 そして、警護隊の中で特にキャラが濃く愉快な残りの四人──ジアント、フルト、スコッティ、レックも独特なポーズをとり始めた。

 両手の親指、中指、薬指を伸ばした手のひらをこちらに向けているのだけれど、よく分からないポージングである。これが、彼らが常日頃から崇拝しているアイドルというもののそれなのだろうか。

 彼らから少し後ろの方へ目を移せば、五人衆と同じように、警護隊一同がその複雑なポーズをとっていた。

 正直、私はどういった対応をとれはいいのかよく分からない。とりあえず、ルチスリーユに助けてもらおう。


「あれ?」


 居なくなっていた。

 すると、少し離れた場所で食事の準備をしている彼女の姿を見つける。

 食事の形式はバイキングだけれど、私は小食なので、いつも小さなパンやサラダ、ヨーグルトぐらいしか食べないから、馬鹿やっている彼らに付き合うよりかは早く準備しておいた方が効率良いと判断したのだろう。

 と、そこフィアンリが、何やらその髪に負けず劣らず頬を赤らめて緊張した様子で話しかけた。あちらもあちらで妖しい匂いがする。

 彼女達のさらに後方で、目と仕草で応援している何人かを見るに、妖しさはさらに増す。

 まあ、ルチスリーユは使用人一同、特にメイド隊の少女達から高い支持を得ているから、ああいった密会のアプローチというのも別に珍しい話では無いのだけれど。

 しかし、皆に余裕はあるのだろうか。

 もうすぐで、この屋敷の『当主』が顔を出す頃──


「おはよう、愛しき俺の娘」


「ひゃっ⁉」


 不意に肩を軽く叩かれて挨拶をされたので、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。

 ルチスリーユが目を輝かせて私を見ている。恥ずかしい。


「……おはよう、お父様」


 とりあえず少し拗ねたような口調で、我が屋敷の当主様に挨拶する。


「「おはようございます、ブディーディ様!」」


 使用人一同も気付いたようで、私の時と同じようにして一斉に出迎える。

 ブディーディは──お父様は、どこか違和感を覚えるようにしてそれに応える。ルチスリーユもどうやら同じく違和感を浮かべていた。

 それは私もなのだけれど、何故なのかはよく分からない。

 しかし、やはりいつ見ても、彼の格好のセンスはユニークなものである。

 シルクハットに着物、スラックスに草履──それらが全て黒で統一されている。

 和洋折衷を具現したような格好だ。なんでも、ヒユウ公国に居る友人から受けた影響なのだとか。


「そういえば、どうやって気配を消していたの? 私、感覚鋭いから、そういうのすぐに察知出来るのだけれど」


「ああ、これも風魔術の一種だよ。最高位までくれば何でも出来てしまうのだけどね」


「ふーん」


 そう。彼はこう見えて、世界中見渡してもそう居ない、最高位魔術師その人なのだ。彼は風魔術の使い手で、正確に言えば、最高位風魔術という名の何でも魔術である。


「ブディーディく──様、食事のご用意が出来ました。喉越し満点の極上蕎麦でございます」


「お、ありがとうでやんす!」


「やんす?」


 ルチスリーユが表情に腑に落ちないものを浮かべながらお父様に『和食』を出すのも、いつもの事だ。

 そして、お父様がたまに変な語尾を使うことも。


「あははっ、また癖が出てしまったね」


 無意識に零れ出たそれに気付くと、彼はいつもこうして笑って誤魔化す。

 ──まるで、急に口癖を直したみたいな窮屈さを噛み殺して。

 しかし、いちいち指摘すること無く、テーブルにルチスリーユも着いたところで、いつものように朝食を美味しく頂くのだった。


**


 朝食を終えて準備を済ませると、広大な庭園を歩いてルチスリーユと共に正門へ向かう。

 門の前には黒一色の車が止めており、助手席のドアを開けて待機していた。


「さ、行こうか。リーベ」


「うん」


 返事をして、しかしその前にやることがあった。

 いや、別に私が自ら進んでそうしたいって言ったわけでは無いのだけれど、彼女がそうしてくれないとやる気が出ないのですっ、なんて言うものだから、仕方無くその条件を呑んでいるだけなのだけれど。

 と、どこかの誰かに言い訳をしながら、にこにこと微笑みながら待っているルチスリーユに近付いて、


「……っ」


 恥ずかしさを噛み殺して、彼女の頬にそっと口付ける。


「あ、はぁ……行ってらっしゃいませ、リーベ様、ブディーディく──様!」


 一瞬だけ恍惚とした表情を見せた彼女だったが、すぐに気を取り戻すと、使用人の鑑ともいえる宝石のような笑顔で私達を見送る。


「あー! またイチャイチャしてる⁉」


 見送られる筈だったのだが、唐突に割って入った嬌声によって、平穏な登校前の時間は終わりを告げる。

 声の主の方を見るより先に、眼前を鮮やかな桃色が一閃。


「──ッ」


 直後、ルチスリーユの短い息を呑む音と共に、目の前で二人の少女が激突している光景が作り出される。

 桃色の髪を靡かせた少女は、この屋敷──ひいては、象属種の『アークエレファント』の血を宿す、『獣人』の中でも上位に位置する実力者であるルチスリーユと拳を拮抗させていた。


「いつも、いつも、リーベちゃんとイチャイチャイチャイチャ……! このアバズレ女がぁッ!」


「あらぁ? それは負け犬の遠吠えというやつですかぁ? あなたがいつまで経っても奥手でヘタレだから、リーベ様は痺れを切らして私を求めるのではなくて?」


「あんだと⁉ この若作りの年増が!」


「失礼な! 私はまだピッチピチな二十代前半です‼」


 聞くに耐えない暴言のやり取りに、思わず溜息をこぼす。それに、ルチスリーユの言っていることには一部虚言が混じっている。


「どうでもいい! リーベちゃんは……私のものだあああッ!」


 私を物のように言っているのは、私と同じ学園に通い同じクラスであり、そして前世から付き合いのある友人──月の使い魔・『ツキウサギ』ことアヌリウム・クロールド。

 複雑な話ではあるけれど、『魔人』である私達は、魔境・『太古の箱庭』という場所でよく一緒に遊んでいた。

 悪魔族としての特性で輪廻転生を繰り返していた私に対して、彼女は世界中に出没している悪霊を成仏させたり、この世に無念さや未練を残して成仏し切れない霊達から力を借りる代わりに彼らの無念を晴らしたりするなど、月の使い魔として、彼女にしか出来ない活動をしながら、人に比べてずっと永劫の時を生きているらしい。

 私もアヌリウムも、言ってしまえば神話として語り継がれている太古の存在なのだ。

 しかし、今までの世界での記憶は無いに等しいのに、どういう訳か、彼女と過ごしていた日々の記憶は鮮明に覚えている。

 だからこそ、ブディーディが当時の魔王で、昔も今も私の父親であると分かっているのだけれど。それと、もう一人、朧気にしか思い出せない少年が──


「おわ⁉」


 また素っ頓狂な声を上げてしまった。

 しかし、彼女達はいつもやり過ぎだ。

 ──地響きや亀裂が、こちらを超えて道路の方まで広がってしまっている。

 そんなことはお構い無しに、『獣人』と『魔人』は規格外の攻防を繰り広げていた。

 ルチスリーユは、『獣術』による超感覚と、地霊力を敷き詰めた砲撃で。

 アヌリウムは、『神術』による全属性の攻撃で。

 それにしても、このままでは本格的に不味いので、止めなければならない。

 彼女達は目の前の宿敵(?) しか見えていないのだろう。白熱する攻防がそれを物語っていた。

 まったく、女というのは怖い生き物だ。私も女だが。

 再び溜息をつき、鞄を助手席に置いて仲裁に入るための準備をする。

 と、その時。


「──ッ!」


「──⁉」

 

 私の真横を一陣の風が吹くと同時に、甲高い金属音と短い悲鳴が鳴り響く。

 彼女達の周囲には微かに碧雷が残滓し、拳と拳の間に割って入ったのは──


「二人とも淑女──お淑やかな女の子なのだから、もう少し慎むことを覚えるでやんす」


 二本の『ヒユウ刀』で仲裁を為したお父様だった。


「も、申し訳ございません、ブディーディく──様!」


「……お義父様……」


 ルチスリーユはともかく、アヌリウムがポツリと呟いた言葉は聞かなかったことにする。


「二人とも、大丈──」


 と、言いかけたところで思案する。ここでいつものように心配したら、それこそいつも通りで、翌日から毎度の如く原因不明の争いが繰り広げられることとなる。

ここは心を鬼に──もとい悪魔にして、彼女達に言ってやらねば。


「二人とも、あまりそういうことをしていると……」


 下がったお父様と入れ替わりに二人の前に立って、


「嫌いになっちゃうんだから!」


 効くかどうか分からない『口撃』を繰り出す。

 すると、


「それはご勘弁をっ!」


「嫌だ、リーベちゃん許して!」


「あれぇ?」


 思った以上に効いたようで拍子抜け。

 そして、暫くの間、二人は懺悔の言葉を流し続けていたのだった。


**


 結局、お父様には送って貰わず、泣き腫らしたアヌリウムと二人で歩いて登校することを選んだ。


「ねぇ、リーベちゃん、本当にわたしのこと嫌いにならない?」


 まだ不安なのか、臆した様子で私の顔を覗き込む。


「なるわけ無いでしょ? ていうか、このやり取り何回目よ」


「だって、不安なんだもん」


「不安がる必要なんかどこにも無いじゃない。だって、『太古の箱庭』で出会ってから遊んだりしたこと、ずっと覚えているのよ?」


「でも……」


 これだけ言っても、まだ不安を感じているらしい。

 普段はもう少し活発で明るい子なのに、こういう好き嫌いのことになると、途端にしおらしくなってしまうのだ。

 こうなれば、しょうがない。


「ああもう、面倒臭いわね!」


 頭を掻き毟り、アヌリウムの方に向き直る。

 そして。


「ぁ……」


 ちょうど目の前にあった巨大樹に右手の掌をつけて、アヌリウムを挟み込む。

 壁ドンというやつだ。

 後ろでいくつかの黄色い悲鳴が聞こえた気がする。気にしない。


「何があっても、私はあなたのことを嫌いにはならないわよ! だって、その……そんなにも私のことを好いていてくれるんだもの……嫌いになれるわけ……」

 

 ただ、格好付けた割に最後の方は上手く締まらず、ごにょにょとなってしまったけれど、アヌリウムがその髪色に負けず劣らず頬を赤らめて、小さく「は、ぃ……」と呟いたので、いいとしよう。

 しかし、この状況はどうしたものか。

 いつ解放すればいいのか、ここから手を取って再び歩き出せばいいのか、それとも他に何かすることでもあるのか。

 アヌリウムはずっと惚けたような表情で、その潤んだ目を逸らしたままだ。


「……」


 いったい、このままどうすれば──


「あ! おい、リーベ! お前アヌリウムに何してんだこらぁ!」


 頭と共に目まで回りかけたところで、金髪碧眼の好少年が、こちらに怒りの形相で向かってくる。その一歩後ろには、高位闇魔術師である彼の従者がついており、そっと私に頭を下げた。


「ゼロニア、ちょうどよかったわ! 見た目チャラいあなたなら、このあとどうすればいいのか知っているでしょ?」


「見た目チャラいってなんだ! 俺は確かに女子にモテるが、本命は──ってだから、まずその壁ドンを止めろ!」


 そう叫ぶや否や、ゼロニアは私の手を巨大樹から離してアヌリウムを解放させる。


「大丈夫かアヌリウム。この悪魔から小悪魔的な仕打ちとか受けてないか?」


「なによ、小悪魔的って!」


 種族的にも人格的にも悪魔だと言われたことはあったけれど、小悪魔と言われたのは初めてだ。よく分からない。

 そして、依然としてアヌリウムは恍惚とした表情を浮かべていたけれど、我に返ると、


「ゼロニア! なんで壁ドンを辞めさせたの⁉」


「はぁ⁉」


 といった、理不尽な怒りが赴くままに、不条理な鉄拳をゼロニアに食らわせたのだった。

 「なぜ……」という、あまりに自然な嘆きを最後に彼は倒れ伸び、それを従者が闇魔術に含まれる幻惑魔法で隠すと、


「お騒がせ致したのだ」


 一言そう言って、恐らく学校に連れていったのだった。

 ものの数秒程度の出番を終えたゼロニア達を見送って、私は巨大樹に触れた掌を見る。


「どしたの? リーベちゃん」


「いえ、なんでもないわ……」


「そう? じゃあ、わたし達も早く行こ? 遅刻しちゃうよんっ」


「ええ……」


 アヌリウムは平常運転に戻ったようだ。

 しかし、唐突として舞い降りた違和感は消えない。

 巨大樹に触れたからだ。

 直感でそう思い、もう一度樹に触れる。そして、今度は悠然と聳え立つそれを見上げてみる。

 そういえば、今までこの樹を目にしたことはあっただろうか。

 違和感の正体はそれだろうか。


「あー、そういえばこの樹、いつからあったんだろうね?」


 アヌリウムも不思議そうにして見上げている。

 やはり、この巨大樹は、いつの間にか聳え立っていたのだ。

 名も無い巨大樹。

 それでいて、決して、ただの自然の神秘であると見過ごせない、なにか得体の知れない『気』を放つそれ。


「……」


 そう思っても、触れていて特に何も起こら──


「あっ、リーベちゃん危ない!」


「なに、が──っ⁉」


 素っ頓狂な声を出してしまったのは今日で三度目だ。

 今日は朝から何かがおかしい。

 樹の上から何かが降ってきたのだろう。私の頭に衝撃をお見舞してくれたそれを拾って、その異様性に驚く。


「黄金の……林檎……?」


 黄金の林檎だった。

 健康的な成分が豊富で甘い果実であり、また、色々な神話や伝説にも登場している禁断の果実。

 黄金に光っているのだから、当然、只の林檎ではないのだろう。

であれば、魔術の類か、もしくは──


『──俺がもし、再びお前と──』


 ……………………………………………………ぁ。


 想起された光景。

 聞こえた声。

 初めて怨嗟の念を抱いた、──の姿


「何よ、それ……私はそんなこと……」


『出会うことがあったら──』


「──ッ!」


 靄が消えない。

 醒めたあとの夢のように、不鮮明なそれを思い出すことは出来ない。

でも。


「…………馬鹿な、男が……」


 居た筈なのだ。

 とても短い間だった。

 太古に伝わる故郷で、少しのいざこざがあっただけの。

 たまたまこの世界で出会って、『自進車』を乗りこなせるからといって屋敷で雇っていただけの。

 しがらみに囚われていた私を救い出してくれただけの──。


「────」


 途端、林檎が光を纏って、ひとりでに浮き始めた。

 そして。


「待って!」


 どこかへ向かい始めた。

 アヌリウムは呆然と立ち尽くしていた。

 悪い気がしたけれど、彼女に鞄を預かってもらうことにした。


「行ってらっしゃい、リーベちゃん」

 

 どうして、彼女がそう言って送り出してくれたのかは分からない。

 けれど、私は泣き出しそうになりながら、


「行ってきます!」


 満面の笑みを浮かべて、そう答えたのだった。



 煌々と輝くそれを、ひたすら追いかける。

 ここが街中であることも忘れて。

 走って、走って、走って。

 頭の中には、浮かぶ筈の無い少年の姿があった。

 名前を叫ぼうにも、まだ完全には分からないから叫びようが無い。

 でも、確かに居るのだ。

 この光が導く道の果てに。

 未だ形をなさない曖昧な存在。

 胸に抱く確かな暖かさ。

それを噛み締めて、高らかと叫ぶ。


「────ッ‼」


 高らかと──



 心臓の鼓動がうるさいくらいに鼓膜に打ち付けられる。

 全力で走ってきたからか、それとも、今目の前に居る少年のせいなのか。

 後者だとしたら、何故、愚鈍な馬鹿畜生如きに心臓を高鳴らせなくてはならないのだろう。


「……っ」

 

 以前なら、そう思っていたことだろう。

 でも、今は──


『──その時は……』


 喉が凍り付くような感覚も、煩わしいくらいの鼓動も、今はもう、収まっている。

 今までの激情が嘘であったように、やけに落ち着いている。

 だから、この言葉を伝えることも、きっと問題無い。

 昨日、一昨日ですらまともに言えなかった、この言葉。

 そして、これからずっと、彼に対して当たり前に使っていくことになるだろう言葉。


『おかえりって、そう言って欲しい』


 私は泣きそうなのを堪えて、そっと微笑む。

 少年は、泣きながら、満面の笑みを浮かべる。


 私は、言葉を紡ぐ。


 

「おかえり!」



「ああ、ただいま!」



 こうして、私達は再び、巡り合う。



 これは、一人の少女が、前へ進むことを決意した物語。

 これは、一人の少年が、無理だと、無謀だと言われたことを成し遂げた物語。




 ──これは、一つの固定概念を壊した者達の物語である。


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神ノ落とし子 アオピーナ @aopina

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