第十話『餞別の言葉』

その少女を目の前にして思うことは、色々とあり過ぎた。

蒼原森檎とはまた違った意味で、悠久の因果と因縁が絡んだ相手。恐らく、この世で最も私を愛し、最も私のために破壊を重ね、最も私が恐れ慄いた少女──。

でも、今はその面影は無く、ただ欠けた記憶の欠片を探し求めて虚無を彷徨う無垢で無力な少女でしかない。

蒼原森檎が『神ノ落とし子』として、他世界の神々と共に罰を下したことの結果だろう。

そこに憐憫や哀切といった情が傾くことは無い。

けれど、

「あなたは、アヌリウム。月の使い魔・『ツキウサギ』で、私と同じ故郷で沢山遊んで……」

変わり果てても求めるものは変わらないその少女に、私は告げる。

「私を愛してくれた、人……よ……」

どうして、喉が震えて涙が零れてくるのか、よく分からない。

蒼原森檎は、好意を向けることはその人の自己責任だと言っていた。それで自分が振り向いてもらえなくても、不幸な目に遭ったとしても。

私は今までその考えを持ったことは無く、それを聞いた時、救われたと思ったし、納得もいった。

しかし、例外だってある。

その好意にまともに気付けないまま、長い間──本当に長い間、彼女を待たせ過ぎた。

私が弱かったせいで、彼女をずっと傷つけてきたのだ。

その傷が癒えること無く、膨張し過ぎた末に招いたのがこの悲劇の一端だとしたら、それは私の責任でもあるのだ。

だからといって、この場で再び崩れ落ちて泣き喚くなんてことはしない。

ただ一言、彼女に添えるだけだ。

それで、少しでも少女の傷が癒えるのなら。

「私を、愛してくれて……ありがとう……っ」

崩れ落ちそうなのを堪えて、けれど涙を止めることは出来なくて。

でも、精一杯の感謝の気持ちは伝わって欲しいと願って。

「どうして、泣いているの?」

アヌリウムが私の顔を覗き込んで、不思議だと首を傾げる。

「さあ……何でかしら……っ」

思わず腕で両目を擦る。

こんな状態では締まらないではないか。

相変わらずな自分の締り悪さを呪い、腕を下ろして、

「でも、知ることが出来てよかった……」

アヌリウムの身体が光に包まれていることに気付く。

「あなた、一体、それは……」

「お迎えが来たのかも……ほら、私、沢山の人を殺してしまったから」

重ねられた罪が、重ねられ過ぎた大罪が、彼女をあの場所へと誘うのだろうか。

魂の終着点を決める、あの『天ノ国』へと。

今度は神による招待では無く、正真正銘、死後の世界へと旅立たせるために。

「なん、で──」

そう言って引き留めようとして、自分の勝手な無責任さを咎める。

向けられた愛情に応えることが出来ず、挙句の果てにその者の選択にすら疑問符を投げかける浅はかさ。

しかし、そんな私の浅薄を彼女は咎めることも無く、

「最期に私と会ってくれて、ありがとう」

にこやかにそう言って、天へと昇っていく。

その言葉を受けて、私は。

私は──

「私も、ありがとう……!」

そして。


さよなら──。



少女は暫くの間、空高くで霧散する光を見上げたままだった。

まるで光の行き先を見守るかのように、沈黙を守りながら。

しかし、それがずっと続くことは無く、深呼吸して振り向くと、こちらにゆっくりと戻って来た。

泣き腫らした顔には一遍の曇りも無く、それはどこかケジメを付けたような清々しさで。

「今思ったのだけれど、『顕現』していたあなただったら、すぐにでも……」

リーベがルチスリーユに問うているのは、彼女にとっては怨嗟の相手でしかないアヌリウムをどうして生き長らえさせたのか、ということだろう。

その問に、ルチスリーユさんは微笑を浮かべて、

「それは、私の仕事ではありませんから……」

今しがたのリーベと同じく、空を見上げてそう言ったのだった。

そして俺も、同じようにして天を仰ぐ。

一筋の光が差したように、灰と黒で塗りつぶされていた空は、少しだけ、明るさを取り戻したように思えた。

俺達を包み込むそれに彩りが戻るまでには、まだ長い時間が要るだろう。

それ程に、失われたものは多く、大き過ぎた。

けれど、いつまでも後ろを振り向いて立ち尽くしている暇は無い。

決意した筈だ。

あいつに願いを託されて、その時に決めたこと。

それは俺にしか出来ず、俺がすべきことで。

俺がそうしたいと、志したことなのだ。

「なのに、何で今更になって怖気付いてんだよ……」

手が震え、膝は笑い、動悸は激しく、息は乱れていく。

その時が、刻一刻と迫る。

幸いなのは、それを成す時はセルフでは無くオートだというところだろう。

レストランで予約するように、クレジットカードの後払い決済のように、その時の選択が、時を経て成されるのだ。

まだ、リーベやルチスリーユ先輩にも、ブディーディにだって言うことは無かった。

皆が皆、幸せなハッピーエンドを迎えることが出来る。彼にはそう言った。

しかし、そこに自分のこともきちんと入れたかどうかと問われれば、きっと、答えに息詰まるだろう。

あんなに、リーベに散々偉そうなことを言っておいて、言った本人はこれだ。

自己犠牲なんて、人には絶対出来る筈が無く、物語の格好良い登場人物選択肢に留まるのだろうなぁ、と思っていたのに。

まさか、ヒーローでも無ければ主人公でも無い自分自身が、その役目を担うことになるとは、やはり人生というものは何が起こるか分からない。

「蒼原森檎ー! なに、突っ立ってセンチメンタリズムに浸っているの? 屋敷に帰るわよー!」

少し遠くで、愛しき我が主が呼んでいる。その隣には、憧れた理想のお姉さんも居て──

しかし。


「ごめん」


そこには行けない。

やるべきことがあって、既にその時は来ているのだから。

小さく呟いた俺の謝罪に、リーベは訝しげな表情をする。

でも、その時。

一つの小さい影が天からゆらゆらと降ってきて、それを手に取る。

──それは黄金に輝く林檎だった。

創世記においてのアダムとイブが食べてしまった禁断の果実を始めとして、様々な神話や伝説に登場するそれ。

そして、また一つ、これから生まれる伝説の礎ともなるものでもある。

「蒼原森檎、それは……何……?」

「俺が神と交わした契約だよ」

そう言って、俺は迷わず林檎を齧った。

これが、『神様』と交わした契約の成就を知らせる合図。

ずっと前に、それこそ太古の時代に、神と契約を交わしていたのだ。

こんなことを言うと、中二病末期患者のように聞こえなくも無いが、事実は小説よりも奇なりとも言うだろう。

つまり、そういう事だ。

あの時、『神様』から『魔族狩り』の命令を受けた時、一つの契約を交わしたのだ。


──この狩りのせいで最も不幸になる者が居たなら、その者が幸せを得るために前へ進もうと決意をした時、俺にそうしやすい世界を作らせろ──と。


唐突に、光が放たれる。

どこからともなく現れたそれは、俺とその周囲を照らしていく。

きっと、林檎の力だろう。

あとはそこに、神から授かった力と、アヌリウムから剥奪した『ツキウサギ』の力、俺の『神ノ落とし子』としての力が合わされば、それは一つの『天恵』となって人々に救済を与えることが出来る。

だからこそ、俺にしか出来ない唯一無二の方法で、俺がこの世界を救いたい。

世界を守るということと、世界を救うということは似て非なるものだ。

守ることは出来ても、その間に失われてしまったものを救うことは出来ない。でも、救うことが出来るのなら、その間に失われてしまったものも救うことが出来る。

こんな道理、普通は存在しないし、あったとしても受け付けないだろう。

しかし、確かにあるのだ。

どこにも存在しないような、摩訶不思議で突拍子もないような救済の方法が。

不可能だと思うのなら、そう思われるのならやってのけてみせよう。

無理だとしても、無謀だとしても、それを覆す程の無茶をやってのけよう。


──幸せな世界など夢物語だなんていう固定概念をぶち壊してみせる。



蒼原森檎が、私達と共に帰ることを断る意味が分からなかった。

彼が言っていた『神様との契約』や林檎についても、全くもって意味が分からない。

だって、あの少年が私の手を取って、導いてくれたのだ。絶望と呵責の深淵から引きずり出してくれたのだ。

なのに、どうして──

「さっき言っただろ? この世界は何とか出来るって。それを今からやるんだよ」

「意味が、分からないわ……だって、あなたはもう、私を救ってくれた……」

「それがまだ、終わりじゃないんだよ。まだ、あと一つだけ、やらなくちゃならないことがあるんだ」

 恐らく、少年は確固たる決意のもとに、そう言っているのだ。

 でも、その決意が何なのか、私やルチスリーユには話されていない。しかし、確実に分かることはある。

 ──その選択が、自己犠牲を伴うのだということを。

 話が違うではないか。いや、本人は自己犠牲のことをまるで否定してはいなかったけれど、それでも彼のことを咎めたいと思うことは、果たして悪だろうか。

 しかし、時間はあまり残されていないのだということを思い知らされる。

 蒼原森檎か、もしくは林檎からなのか、どちらにせよ、放たれた黄金の光は他の多種多様な色を灯し、辺りに広がっていく。

虹色のそれは、まるで生命の神秘を現しているかのように、ゆっくりと荒れ果てた大地を飲み込んでいく。

「リーベ様、これは……」

 ルチスリーユも、只事ではないと感じ取ったのか、真剣味を帯びた目でこちらを見る。

 どうやら、止まっている暇は無いようだ。

「蒼原森檎! 馬鹿なこと言っていないでその光を収めなさい!」

「すまん、それも無理だ」

「どうして‼」

 言いながら、佇んでいる彼の方へ近寄ろうとする。しかし、

「うっ⁉」

「リーベ様⁉」

 手が届く寸前のところで、見えない波動に遮られるようにして、彼に触れることさえ叶わない。

 けれど諦めきれずに少年を睨むと、彼はどういうわけか、にこやかに笑ってみせて、

「……たった二日間の短い間で色々あったけどさ……なんだかんだいって楽しかったよ」

「────」

「リーベ。お前、最初は本当に酷い女だなって思って、でも根は本当に良い奴で……自分が掲げてた理想像にどんぴしゃだったから、お前みたいな人間になりたいなって気が付いたら思ってたんだ。まあ、それが好きって気持ちに変わったり、全てを曝け出し合って言い合ったりするんだから、人生ホント何が起こるか分からねえものだよな……」

 いきなり語り出した少年を、冷静に見つめることは出来なかった。だって、これではまるで別れ際に言う台詞のようではないか。

「ルチスリーユ先輩。その、あなたにはリーベとはまた違った意味で惹かれました……理想のお姉さんっていうのは勿論、気品溢れて眉目秀麗で才色兼備なところとか、趣味が合うところとか──リーベのことを第一に考えているところとか。まあ、それ故にリーベを巡って争うことになりそうですけど……」

今度はルチスリーユにも同じように振り返り的な感想を言って、最後の争い云々に「あはは」と苦笑いを付け足す。

いや、笑っている場合ではないだろう。

ルチスリーユも困惑している。蒼原森檎の様子がおかしいことに気付いているのだろう。

「蒼原君、あなた……何をしようとしているの?」

「大丈夫ですよ。危ないことでは無いので」

「そういうことじゃないわ! どうして、あなたは今……何か大きなことをしようとしているかのように、心を落ち着かせて佇んでいるの!」

「ははっ、バレちゃいましたか。実は、まだ、心臓の鼓動がうるさくて……」

無理におどけた様子を作り、軽薄を装っているのか。

不可解な現象と、彼の煮え切らない謎めいた行動。

──我慢の限界だった。

「……っ! あ、お、は、ら…………蒼原森檎ぉぉぉぉおおおッ‼」

さっき『天ノ国』で彼と言い合った時以上の大声で、彼の名前を叫ぶ。

流石に驚いたのか、呼ばれた本人だけでなく隣にいるルチスリーユまでも、びくっと肩を震わせた。

「勝手なこと言ってんじゃないわよ! 帰るったら帰るの! さっき、私のこと導いてくれるって……そう、言ったじゃない!」

手を取って導いてくれたことは紛れも無い事実で、彼が言っていたことと合わせても別に嘘では無い。

けれど、だとしても、私にとっては、彼の行動が彼の嘯いていたそれに相反していると思えて仕方ない。

しかし、そう思っていること自体、眼前の現実から目を背けたいと心が訴えていることの表れなのかもしれない。

確かに言っていた。全てが上手くいく方法があると。

でも、どうして、今なのだ。どうして、自分の身を賭してしまうのだ。

どうして──

「……うそ、つき……」

渦巻いて濁ってとめどなく溢れ出ていく怨嗟の念が、嫌に納得している思考に反して、負の感情を言葉として世界に晒される。

「嘘つき‼」

初めて人に、怨嗟の念を向けたかもしれない。

恨みの言葉をぶつけるということは、こんなにも重く、嫌悪感に駆られ、醜い情に襲われるものなのか。

心のどこかが決壊して、氾濫した怨嗟の波は、落ち着きどころを失くして暴れ狂う。

──分かっている。

彼は、皆が皆幸せに過ごせるような甘美な世界を作り出して、私達を含む万人を救済しようとしているのだと。

でも。

「嘘つき! 嘘つき! 嘘つき……っ‼」

ついてもしょうがない悪態は自然と零れ出て、少年にぶつけられる。

「最後の最後にままならなくてごめんな……けど、こんな俺の願いでよければ、聞いてくれ」

「嫌だ……! 絶対聞いてなんかあげない!」

「俺がもし、再びお前と出会ったら……」

「嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 聞きたくなんか……っ!」

「────」

瞬間、煌々と輝く虹色の神秘が大地に広がり、世界の果てまで駆け巡っていく。

それと共に、目の前である異変が起こっていた。

巨大な木の根っこが、蒼原森檎が居た場所を中心として、地面から次々と姿を現しているのだ。

「ぁ……っ!」

勢いよく突き上げて複雑に絡みゆくそれは、瞬く間に少年を覆い隠し、姿形を形成していく。まるで少年が起源でもあるかのように。

私とルチスリーユは、目と口を大きく見開いたまま、呆然と立ち尽くしてその光景を見つめていた。


──それは『巨大樹』だった。


彼が林檎を天から授かっていたのも、これで腑に落ちる。

林檎は禁断の果実。その木もまた──

つまり、蒼原森檎は。

彼は、全ての条件を整えて、自らが『天恵の大樹』となって、世界を救う方法を取ったのだ。

大気が震え、大地が躍動する。

肌で感じるそれは、単なる自然現象などでは無く、合図なのだろう。

──間もなく世界が書き変わる。

全てが良い方向に傾き、今までの悲劇全てが帳消しになるような、そんな都合の良過ぎる夢物語を具現したような世界へと。

「ルチスリーユ……」

傍らに居た彼女をそっと抱き寄せる。

「リーベ様……っ」

嗚咽を漏らし、背中は酷く震えている。

誰だってそうだ。

こんな結末、誰一人として想像出来たものか。

あの少年には、まだ恨み節が言い足りない。今すぐにでも殴りかかって怒鳴り散らしたい。

けれど、彼はもう、居ない。

少年は言っていた。再び私と出会ったら、と。

そんなことがあるものなのか。

でも、もし、あったとしたら。

もしもまた出会ったのなら、その時は──

「……っ」

言葉に出来ないような無形の感情を奥歯と共に噛み締めて、ルチスリーユの身体を力強く抱き締める。

そして、そのまま変わりゆく世界に身を委ねていく。

そっと目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、屋敷で皆が楽しそうにも慌ただしく過ごしている日常風景。

おかしな幻想を抱くものだと思っても、その景色が色褪せて消えることは無かった。

世界は変わっていく。

幸せな世界へと誘われる。


そして。

そして。

そして──


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